『The Blackwell Companion to Philosophy』章末問題自己流解答(二章まで)

 

The Blackwell Companion to Philosophy (Blackwell Companions to Philosophy)

The Blackwell Companion to Philosophy (Blackwell Companions to Philosophy)

 

昔この本を読んでいたときに記述して溜めていた解答を発掘した.溜めておいても腐るだけなので放流して供養.

 

注意
  • 筆者は哲学の専門家ではありません.
  • 日本語文献に当たっていないため,用語の日本語訳がおかしい可能性が十分にあります.
  • 三年前くらいにちまちま書いていた解答で,今現在この本を読み進めるモチベーションはないためこの解答が更新される可能性には期待しないでください.
  •  この解答を参考にしたことで生じるいかなる不利益に関して筆者は責任を負いません.

Part I Areas of Philosophy

1 Epistemology

1. justificationの定義と比べればそれ程重要ではない。私たちが何らかの命題を正しい"知識"として認識するとき、その行為は知識そのものよりも正当化のプロセスが持つ性質に強く依存しているからだ。


2. 私たちは幻覚、夢などで誤った命題を正しいものと思い込むことがある。極端な懐疑主義者は、我々が正しいと思っていることが全て間違っている可能性がある以上我々は実質的に何も知らないに等しいとした。

 

  3.Gettierの挙げた例は、命題pの真実性ならびに主体Sによる正当化の事実が保証されていながら、結果としてその真実性と正当化のプロセスが全く噛み合っていない事象を提示した。直感的に知識とは言いがたいその例は、それまで知識の定義を「正当化された真なる信念」(justified true belief)、つまり

  1. Sが命題pを信じており
  2. 主体Sが命題pを信じる正当な根拠があり
  3. 命題pは真である

としてきた可謬主義(fallibistm)にその定義の修正を迫った。

参考文献

Reed, B. (2002). How to think about fallibilism. Philosophical Studies, 107(2), 143-157.

 

4. 外在主義externalism は、信念の正当化原理を主体の思考の外部に求める。例えば、信頼性主義reliabilismは、信頼性の高い認知プロセスによって得られた信念を「正当化された信念」として扱う。(この問題の解答としては不適切なのは分かっています。問題では「信念以外に何があるか?」と訊いているのに対し、解答ではそれを「信念の正当化において信念以外に使われうるものは何か?」という問題に勝手にすり替えているからです。ただ、テキストの流れとしてはここでinternalismとexternalismの対立について問うていると解釈する方が自然ですし、信念以外に何があるかという議論はそもそもテキストの対象外です。なので、わざとこのような解答にしました。externalismの中には知識の基礎自体を信念以外のものに求める一派もあるようで、その一派の思想をここで答えて欲しかったのかもしれませんが、あいにく私は不勉強でそのあたりに疎いため、ここではひとまず保留。)


5. dependent beliefはfoundational beliefそれ自身ないしそれに支えられて成立するものである。具体的にどのように支えられているかについては本書p41にいくつか仮説が挙げられているが(deductive/inductive/criterial)、それらは全て同じページ内で論破されてしまっている。そもそもここでこの疑問に対する答えをちゃちゃっと用意できるならfoundationalismはもっと流行ってるはずである。


6. 一つ目の問いについては、それに対してyesと答えるのが認識論の一派coherentismである、としか答えようがない。coherenceの定義がいかに難しいかは本書p41-42で述べられていて、二つ目の質問への答えは本書のスタンスとしてはnoである。


7. yesと答えるのがinternalismでnoと答えるのがexternalism(問4とモロ被りになってしまっているのでやはり私の問4の解釈は間違っているかもしれない)


8. externalistならnoと答える。というか、noと答えたくて「主体に対する正当化の理由の非自明性」をもとに議論を構築したのがexternalismである。internalistなら……分からん。


9. yesと答えたのがalvin goldman。これに対する批判としては、「これを前提にして研究を行うのは認識論というよりは心理学の仕事であり、この前提の正しさこそをしっかり検証すべきだ」とか?本書にはそんなようなことが書いてあるが、知識概念そのものに対しての批判というよりは学者の研究姿勢に対する批判じゃないのかコレ…


10. "help to explain"というか、justificationの原理をまさに説明してる概念なんじゃなかろうか。


11. ない。古典的な解答としてはデカルトの言うコギトということになるが、ウィトゲンシュタインが私的言語論の中でデカルト独我論の可能性を否定している(我々がコギトの概念に辿り着くためには言語が必須だが、その言語は自身と他者との交流によってしか獲得され得ない。独我論的世界観においては、言語の習得が不可能であるばかりでなく、そもそも言語を習得する動機が存在しない)。


12. 個人的には後者。科学哲学なり法哲学なりが各分野においてはとりあえず成立しそうな正当化の要件を探り、それを統合する形で認識論が頑張れればいいのでは。


13. 既存の認識論に対する反例。それを一つの成立した議論と見なすよりも、既存の理論をより深化させるための足掛けとするか、正当な理由を挙げて無視するかした方が良い、というのが著者の主張。


14. その問いの根拠の堅牢さを調べればよい。デカルトが自身の議論の中で採用した"evil demon"は、唯我論を展開するための道具立てとして用いられただけに過ぎず、荒唐無稽といってもよいその説に真っ向から取り組む必要はない。


15. カントは、感覚器官が受け取ったデータを感性・悟性によって経験へと変換するそのやり方自体のせいで、懐疑主義者が唱えるような特殊な状況が発生しうるとした。つまり、私たちがそれと知らずに誤った命題を正当化するという状況は私たちの認識の構造が生み出したものであり、感性・悟性に基づいたfoundationalismであるカントの認識論においてそれらはやはり正当化される。カントの認識論が正しいのかどうかはまた別の議論である。


16. 夢を見ている可能性はある。が、カント的に言えばそこにおいても経験は正当化されている。


17. Yes。それでもカント的には略


18. その物体が認知されることに依存せずに存在すると言えるならば、その物体の性質を定性的に述べることが出来るので、問いは「物体はこの世界の誰にも認知されていない時にも存在しているか?」と言い換えられる。これにNoと答えるのが懐疑論者。yesと答え、その根拠として「誰も認知してなくても神様は見てるから!」とするのがデカルト/バークリー。根拠として「もしそこに認知者がいれば認知されていたでしょ」という仮定法を持ち出すのが現象学者。


19. この思考実験が本文中に提示されておきながらそれに対する解釈がどこにも書かれていないので推量になるが、恐らくそう考えるのは過激すぎる。我々は生理学/解剖学を用いて自らの認知のプロセスをある程度明かすことができる。もちろん解剖を行う者自身もヘルメットを付けているのだから、彼が発見する人体の仕組みもそれ相応に歪んだものになるだろう。ただ、認知のブラックボックスが維持される形で人体の研究が為されるようヘルメットに細工がされている、という段階まで行ってしまうと問14で挙げた"evil demon"の状況に近くなる。一種の思考実験として認識論を洗練させるためのスパイスとはなるが、その可能性を真面目に考えるほどのものではない。


20. yes。Gilbert Ryle は「全ての経験は偽の誤った経験である」とする懐疑論に対して(実は懐疑論はそのようなことを主張してはいないのだが)、"polar concept"という概念を提出する。コインが偽造されているということを知覚するためには我々は本物のコインをも知らなくてはならない、という例を敷衍して、彼は「あることが誤っていることを知るには正しいとはどんなことかを知らなくてはならない」と唱え、それを知るためにはその知識を過去に実際に適用した/ないし今目の前の状況に適用できる必要があると主張した。つまり、我々が「全ての経験は誤っている」と認識できるのは正しい経験が何かを知っているからである、そして正しい経験が何かを知っているということは我々は正しい経験に遭遇したことがあるということを意味する、よって懐疑論は間違っているとした。この議論には「そもそも懐疑論者はそんなこと言ってない、ただ単に経験が誤っている可能性が遍在していることを指摘しただけだ」とか「知ることと適用することの同値性が自明ではない」とか「二項対立の存在を理解しただけで概念そのものを理解したとするのはおかしい、例えば無限と有限という対立を知ることと無限の概念自体を体得することは別問題だろ」とかいったツッコミ所があるが、単体では嘘くさい懐疑論がその展開の中で重要な示唆をする好例である。(というのがこの問いへの解答としてまるまる本文に書いてあるのだが、これは別に懐疑論が"jointly require"してるわけではないんだよなあ。ただ単にあるひとつの懐疑論の誤った理解をもとに議論を構築したら面白いことになりましたよというだけで、懐疑論の結合が重要な問いに繋がるという例としては不適切だと思う)


21. 前者はある種の策略として自身の論の中で使われるもの。後者はその問いへの答え自体がひとつの重大な議論を作り上げるもの。前者を後者のように処理するのは無意味であり、後者を前者のように扱うのは機会損失。


22. 一つ目の問いの答えは神のみぞ知る。二つ目に関しては、ウィトゲンシュタインの立場は一人称というよりは二人称的な対話重視の認識論であるように感じる。


23. どちらがいいのかは知らない、というか評価が定まっていないので個人の主観としてしか答えようがないが、ひとまず前者が超越論的アプローチ、後者が現象学的アプローチ。


24. 質問の意味がよく分からず。「私たちが何かを経験しているという可能性が私たちの確かな信念なしには不可知であり、にも関わらずその信念が間違っているということはあり得るか?」


25. 個人的にはカントの立場に就きたい。現実から得られた感覚情報が感性・悟性によって処理された結果が経験。


26. 現象学のcounterfactuals に対する批判としては、「counterfactuals の成立が過去の我々の経験を与件としているのに、実際の我々の経験が今度はcounterfactualsが成立していたという可能性を与件としていて、循環論法である」というのがあるらしい。出典ウィキペ英語


27. 唯物論に近くなって、マルクスみたいな弁証法唯物論が出てくるんじゃないんですか(小並感)


28. yes 問11に書いた通り


29. これは面白い問い。疑うことと認識することの相関を問うているという点では問20で出した"polar concept"に通ずるものがある。そこでの議論を引っ張ってくれば、「疑いようがない≒否定できない=認識できない」という図式は誤っているということになる。もう少し問題形式に真摯に答えると、「疑うことの出来ない命題は認識できない」という命題は絶対的に真ではありえない。もし絶対的に真ならこの命題それ自身が疑うことのできない命題であり、現に私がこの命題を認識出来ているという事実と矛盾をきたすからだ。もっとも、今私が疑っているという事実をしてもってこの命題に絶対的な真偽が定まることはないということは容易に導かれるのだが。ではどうやってそのような命題を認識しているのかと言えば、これはそのような命題の具体例が挙げられない以上どうしようもない。ここでは恐らく共時的に疑いようがないだけでなく通時的に見ても疑いようがない命題を求められているが、そんなものがあるなら今の学問はこんなに細分化していないだろう。もしこのような命題がどこかにあるとして、それが疑う余地のある命題とどのように関連しているか問うとすれば、「全ての疑う余地のある命題は疑う余地のない命題に到達するために問われている」とでも言えるのではないだろうか。命題においても大統一理論のようなものがあるのではないかというただのフィーリングに基づいた答えだが。

2 Metaphysics

この項、章立てがざっくりしすぎている上に質問の意図がいまいち掴めず、あまり出来がよろしくない。著者のSimon Blackburn 教授は一般向けの哲学書も何冊か執筆しておりそちらの評判は上々なので、むしろ私の頭の出来がよろしくないのかもしれないが。


1. 形而上学の信頼性はfamiliar classとして定義されるものの信頼性に作用される。もちろん、familiar classとexotic classの関係性の定義の仕方も形而上学の信頼性に影響を与えるが、その関係性が脆弱なものである場合は関係性に修復を加えればよく、形而上学の試み自体は成立していると言える。物質界の因果関係を探るのが自然科学だとすれば、それと精神との関係を明らかにするという形で形而上学の問いは生じる。


2. 両方。前者はrevisionary metaphysics、後者はdescriptive metaphysics(問4の答え参照)


3. その必要はないとしたのがプラグマティズムと結びついた多元論。("conceptual scheme"という用語が何を指し示しているのかがいまいち。形而上学における理論の構造と見なせば「familiar classとexoticの関係を明らかにすることが共通の特徴である」と言えるが、ここではfamiliar classの置きどころという観点から問いたかったのか?と解釈)

 

4.そもそもテキスト中の記述だけだとdescriptive metaphysicsとrevisionary metaphysicsの線引きがいまいち分からない。出典元であるところのP.F.Strawson "Individuals"にも当たってみたがそちらでも記述が曖昧だったので、ここではKriegel, U. (2013). The epistemological challenge of revisionary metaphysics. を全面的に参考にしながら話を進める。

 Kriegelによれば、二つのmetaphysicsの定義は以下のとおり。

  • descriptive metaphysics : 私達が持っている認識の構造が現実の物質界の構造と対応していると仮定して、現実の構造を探る形而上学
  • revisionary metaphysics : 私達が持っている認識の構造と現実の物質界の構造は必ずしも対応していないと仮定して、私達の認識とは独立して成立するような現実の構造を探る形而上学

 「Strawsonの定義とだいぶ違くない……?」という印象を受けるが、Strawsonがラッセルの述語論理に基づいた論考"Individuals"の中で自身の形而上学をdescriptive metaphysicsだとしているところを見ると、上の定義も概ね正しいように感じる。というか、他に話を発展させることができる程度には具体的な定義が見つからなかったので、この定義はひとまず正しいものとしておく。

 さて、複数のrevisionary metaphysicsの理論があったときに、どれを採用すべきか、すなわちどれがより正当かを判断するための基準をここで考える。Kriegelによれば、この基準が持っていなければいけない性質は次の二つだ:真実性(truth-conduciveness)と識別性(discriminateness)。

 真実性(truth-conduciveness)は、その基準が真でなければならないということ。Kriegelは基準の一つの例として簡潔さ(simplicity)を挙げた上で、「簡潔さが真実性を帯びるためには、世界の簡潔性という原理が効力を持たなければならない(for simplicity to be truth-conducive, a principle of the simplicity of the world would have to hold.*1 ) 」「アポステリオリなものとしての世界の簡潔性の原理は全くもって実証されておらず、アプリオリなものとしてはカント学派でない限り恣意的なものだ。(as a posteriori, the principle of the simplicity of the world is remarkably unsupported; as a priori, it is arbitrary unless Kantian.*2 )」として、簡潔さには真実性がないとしてこれを却下している。

 識別性(discriminateness)は、妥当性という観点から複数の理論を識別できるということ。我々が知覚から得る情報は、この識別性が欠けているためにrevisionary metaphysicsにおいて基準たり得ない。目の前にリンゴがあったときに、「微粒子が作り出す形状が我々にリンゴというものを知覚させるだけで、実際には世界には『リンゴ』なるものは存在しない」と主張するnihilismと、「微粒子のみならずこの世界には微粒子が作り出すリンゴも確かに存在する」と主張するrestrictivismとを比較検討する際に、知覚から得られる情報は参考にならない。どちらの主張を採用しても、知覚から得られる情報は「目の前にリンゴがある」に変わりないからだ。

 では、真実性と識別性、どちらも備えた基準はなんだろう……とここに来て、Kriegelは口ごもる。どの基準を採用するにしても、解決しなければならない課題は山ほどある。「これがrevisionary metaphysicsのキソだ!」と断言できるような基準は、今のところない(質問文で"might"を使っているのはそういうことであろう)。

 というわけで、質問に対する解答としては「simplicityとかmodestyとか、正当化のための考えられる候補はいくらでもあるけど、どれが確実かは現時点では何とも言えないよ」といったところだ。一つ一つの基準がどのようなものでいかなる問題点があるのかは、Kriegel(2013)を参照してほしい。ここに書くと長くなりすぎる。

 

5. できる。というか、倫理的・政治的影響は考えないほうがよいのでは。他の分野への示唆をもとにして形而上学を考えると、それは真実性よりも有用性を重要視するようになるが、プラグマティストでない限りそのような見方は害悪である…といったことがKriegel(2013)に書かれている。


6.正しい。が、誤解を招く表現。形而上学者は存在そのものについて考えるというより、どのようなものが存在しそれらがどのようなカテゴリの下に属すかを考えてきた。(と、分かったような口ぶりで書いてみたが、私にはこの二つの違いがよく分かっていない。本書p62の内容を引き写しただけである。)


7. 分析哲学やら意味論やらが形而上学の手法としてはダメだったというのは本書にある通り。質問文に誠実に答えるなら、受け入れられる方法はない。


8.質問文の解釈にあまり自信がない。
「どうして形而上学は自身の可能性に夢中になっているのか?」という意味なら、答えは「哲学には出来て科学には出来ないことがある、という(実証されておらず疑いの余地が多い)ことを形而上学者は信じているから」。


9.1つめの質問は意味が分からず。二つ目の質問はイェス。


10. 本文中には形而上学の制限に関する記述は何もなかった気がする。制限はないのでは。


11. 例え同時期の形而上学が答えを出せなかったとしても、その時期に見られた偏見ないしabsolute presuppositionを後の時代の形而上学で明らかにすることができるので形而上学をそう簡単に行き詰まったと判断すべきでない


12. 一部の多元論者はプラグマティズムと結びついて、真実性よりも有用性を追い求めるようになった。その点から言えば形而上学の少なくとも一部は意義がある。


13. そもそも私たちは私たちが今抱えているabsolute presuppositionを認識することができない。よって答えはNO


14. 言葉の定義の問題か?absolute presuppositionに気付くことが出来ずある一定のボーダーの内側で行う思索をphilosophical reflectionに含めるならNO、含めないならYes。自身がabsolute presuppositionに囚われていないことを証明できない以上、形而上学は終わることの決してない学問である。


15. residual referenceって何…?


16. 現状ない。


17. descriptive metaphysicsのことなら述語論理とかsingular intuition(Kriegel(2013)参照)とか。revisionary metaphysicsについては問4を見よ。


18. そんなん分かりませんよ!今のところは正しいとしか。


19. ラッセルの理論って述語論理ってことですよね。それは分析哲学ごと過去に否定されたんですが。


20. exotic classをfamiliar classから出来ているものとして見なすのが形而上学における還元主義。どのようにexoticを決めるかはどのようにfamiliarを決めるかに依存し、どのようにfamiliarを決めるかは各学者のスタンス?


21. descriptive metaphysicsは我々が持つ認識の構造をもとに考えるので、除去する必要はない。KriegelにもGeneral Intuitionなる例が挙がっている。


22. 分析哲学のことを言っている?だったら答えはNO。解析される言葉自体が歴史的に構築されたもので、形而上学的に中立だと信じる根拠は何もない。


23. どちらも形而上学からは中立な理論の立脚を目指したが、形而上学から中立である以上それらは形而上学上の問題を解決できない。


24. 現在は地続きであるという見方が主流。


25. 24であげたようなnaturalistにとってはそれが主流。


26. 哲学者は学問の様々な分野から提出される説を統合して一つの見解を示さなくてはならず、抽象のレベルが科学より高いから?


27. いいえ。自由意志は何か、自然界の法則はなぜ今あるようになっており今後もそれが続くのか、といった問いに存在論は答えられない。


28. 本文中には何も書いてないから個人の見解になるけど、付随性(supervenience)の議論って要するに還元主義だよね?私としては還元主義はもうダメだと思っていて(これは還元主義に対する一般的な見解でもあるけれど)、形而上学はidentityについて扱うべき。


29. 問4と重なる。真実性がなくても分かりやすければ良いというのはプラグマティズムの発想で、形而上学プラグマティズムではない。


30. B-theoryだとNO


31. いいえ


32. B-theoryだとNO


33. B-theoryだとYes

 

 

*1:Kriegel (2013), p19

*2:同上