「ここさけ」ゆるゆる感想(※ネタバレ有)
いろいろとあって映画「心が叫びたがってるんだ。」観てきました。
「あの花」製作チームが再結集して錬成した作品らしいです。あの花を観ていない自分としては「まあいい感じの岡田麿里脚本が見られればいっかな〜」くらいの気概で観に行ったのですが、結論から言えば良かったです。綺麗な岡田麿里作品でした。
以下、無慈悲なネタバレをしながらゆるゆると語るので未視聴者はブラウザバック推奨。基本的に一回観ただけでこの文章を書いてるので所々間違ってるところもあるかもしれませんがご容赦ください。
岡田麿里って誰よ
「ここさけ」は脚本家の岡田麿里ワールド全開の作品に仕上がってるのですが、そもそもフーイズ岡田麿里という人のために軽く説明をば。
細かい話はWikipediaを見ていただければいいとして大まかな話をすれば、岡田麿里さんは2008年の「とらドラ!」と「true tears」でエモい恋愛系アニメ脚本家として一気に名を成した人です。その後も「花咲くいろは」とか「あの花」とか、キャラクターの感情表現の機微に力を入れたアニメオリジナル作品をコンスタントに輩出している人で、現代の日本アニメ(特にアニメオリジナル作品)のストーリーテリングは彼女と虚淵玄の二人が支えていると言っても過言ではありません。
さて、その点を踏まえると私としてはどうしても「ここさけ」を岡田麿里脚本の過去作品、特に「true tears」と比較せずには「ここさけ」を語れなくなってしまうので、「true tears」のネタバレ嫌よという人は次の章は飛ばしてください。だってtrue tearsとここさけって話がそっくりなんだもん……
あと、ぶっちゃけ「true tears」のお話うろ覚えなのでどこか間違えてるかもしれません。もし間違ってたらごめんなさい。
「ここさけ」は「true tears」的主題への再挑戦?
ここさけは、作品を観ずとも設定を見た時点で一部の人は気付きます。
「これtrue tearsじゃん……」
しかし、最終的にその予想は見事裏切られ……ません。なんだこれ。試しに「ここさけ」と「true tears」の同じ部分を列挙してみますか。
- ヒロインA(成瀬、乃絵)が精神的に未発達
- ヒロインAが小動物っぽい
- ヒロインB(仁藤、比呂美)が優等生キャラ
- お話の中に埋め込まれたお話が登場する(ここさけにおけるミュージカル台本、true tearsにおける絵本)
- ヒロインAを成長させるために主人公ががんばる
- ヒロインAが主人公に惚れる
- そして振られる
- 主人公は昔から関係のあったヒロインBと結局くっつく
岡田麿里さんがどこまで意図的に二つの作品を似せたのかよく分かりませんが、要するにどっちの作品でも「失恋とどう折り合いをつけるか」が大テーマなんですよね。
で、じゃあ「true tears」と「ここさけ」どっちがよく出来てるかと言えば、僕は「ここさけ」の方が好きです。理由はいくつかありますが、一番大きいものとしては
- 最終的にくっつくヒロインBの方が悪者になっていない
- ヒロインAにある程度救いがある
の二つです。前者に関しては正直true tearsの話の流れをよく覚えていないので印象論になっちゃうんですが、比呂美より仁藤の方が心象いいなあと。あと主人公も成瀬相手に変に思わせぶりな態度を取ったりはしていないのでそこも良かった。
二つ目に関しては、「ここさけ」の最後であの二人がくっつく唐突感は確かに否めないのですが、何もしなかったtrue tearsに比べれば遥かに良い。true tearsで「いやフラれちゃったけどさ、人間的に大きく成長したからそれで良くね?」というオチを観た当時は「えっ乃絵ちゃん救いなさすぎでは」と感じた覚えがあるので。やっぱり最後にはいくら予定調和っぽくても具体的な救いがあった方がいいと思います。ちゃんとぼちぼち伏線も張ってあったし。
岡田麿里のすごいところ:演出と脚本の緻密さ
さて、私が「ここさけ」良かったなあ〜と思ったのは、「ここさけ」が「true tears」より良かったからとかそんなみみっちい理由ではありません。この作品を観ていて一番舌を巻いたのは、岡田麿里脚本・演出の緻密さです。
このお話、そう簡単じゃねえなと観客が最初に気付くのは成瀬の書くミュージカル台本が登場する頃からでしょう。ミュージカルの台本と成瀬の気持ち&物語展開がパラレルになっていて、特に終盤のミュージカル本番と成瀬捜索が平行モンタージュになっている部分にはやられました。
もっとも特筆すべきはミュージカル最終盤、坂上・仁藤ペアと田崎・成瀬ペアが別々の歌詞を同時に歌うシーンです。台本の時点ではあくまで成瀬の中の心の迷い(ちょっと悲しいエンディング)が吹っ切れ(ハッピーエンド)に変わっていくというレベルのお話だったのに、気づいたら最後にはハッピーエンドの方の歌を坂上・仁藤が歌っていて、ちょっと悲しい方を田崎・成瀬が歌っている。恋愛成就ソングと失恋ソングのデュエットですよ。おまけにこの案を最初に提案したのは事の元凶である坂上。これに気づいたときは正直ここまでやるかと思いました。大舞台の上でミュージカルの主人公として失恋ソングを歌わされるなんて経験、私は死んでもしたくないですね。本当に岡田麿里は演出効果のためなら血も涙もないほど容赦のない仕掛けを作る人です。恐れ入りました。
他にもさすが岡田麿里脚本だけあって「ここさけ」には色んな小道具が存在し、それらについてあることないこと考えるのも面白いのですが、ここでは少しそれは保留してその前にまず主人公四人のうちのある一人について語っておきたい。
「四人の中で唯一、他の人の話の筋にあんまり絡んでない人ってだ〜れだ?」
田崎大樹とはいったい何だったのか 〜殻を破るということについて
田崎大樹ですよ田崎大樹。あの骨折野球少年。彼のストーリー、明らかに他の三人から浮いてると思いません?
序盤でこそチームメートに「お前過去のキャプテンを見習って仁藤とくっつけよ」とか言われてますが、その仁藤さんに遠回しに振られて以来ほとんど他の三人との直接的な絡みがない。むしろ、彼と他の野球部員との間のいざこざに他の三人が首をつっこむ形で話が展開します。いや最後成瀬に告白してるけど。その前までのプロットでの話です。
ここで少し物語全体の話に筋を戻すと、このお話は成瀬の失恋物語である以上に自分の殻をどう破るかということについてのお話です。成瀬が「たまごの呪いなんてなかったんだ!」と言っていますが、比喩的に言えば「たまごの呪いは程度の差はあれ誰にでもある」と言うべきでしょう。極端に自分の殻に閉じこもっていた成瀬順が、少しずつ殻を破って自分の思いを伝え始め、それに勇気付けられた他の三人もだんだん自分の殻を破っていく。こういうタイプの物語、岡田麿里さんがかなり好んでやっている気がします。「とらドラ!」も本音は言いたいけど言えないよね、でも言わなきゃね、みたいな話でしたし。
じゃあ具体的に成瀬以外の主人公三人がどのように殻を破っていったのか考えてみましょうか、という話になるのですが、ここで気付くのは「坂上と仁藤ってあんまり殻破ってなくない?」ということ。昔あったヨリを戻しているだけですからね。二人の間にあった曖昧さに決着を付けた、という部分はもちろん二人にとっての大きな決断ではあったんですが、この二人は劇中では結局最後まで直接好意を告げずに終わっています。
それに比べて田崎君。彼、実は物語の中で成瀬と同レベルの、いや下手したらそれ以上の厚さの殻を破っているのではないでしょうか。野球部の現役エースに対して、自分の無理解を詫びる。成瀬にひどい言葉を言ってしまったことを素直に謝る。交流活動に対する自分の理解を改めて、先生と他の委員に「俺も手伝います」宣言をする。そして最後に成瀬に対する告白です。とっても観ていて清々しいキャラクターです。
最後の告白シーンの後のラストカット、空に三枚の葉っぱと、呪いのたまごの帽子が舞い上がります。ここで飛んでる帽子って、実は田崎が告白で自分の殻を破り切ったことの象徴なんじゃないかと私は思っています。他の三枚の葉っぱはもちろん他の主人公三人です。
要するに、「ここさけ」は成瀬の成長失恋物語でありながら同時に田崎の壮大な殻破り物語だったんじゃないかと思うわけです。いわゆる裏主人公ってやつですね。彼が他の三人から少し浮いてるのも、彼が抱える問題が多岐に渡っていたことの裏返しだと言うことができるのではないでしょうか。
コミュ障キャラはガラケーを使うことを強いられているんだ
「ここさけ」本編全体について語りたいことはだいたい以上で終了したので、ここからは演出とかで気になった部分を散漫に書いていこうかと思います。1点目は作中のガラケーについて。
スマホが普及した後に物語の中でわざわざ「ガラケー」を使うキャラが登場する場合は、何かしらの意図が大抵あるわけです。個人的にガラケー使いキャラと言われて一番に思い浮かぶのはやはりこのキャラ。
シュタゲのシャイニングフィンガーさんですね。シュタゲ中には確かスマホがまだ存在していなかったと思うので、別に彼女がガラケーを使うことに恣意性はないのだと思いますが、やはり映像を見ていて気になるのはボタン押す音。あと指圧。
「ここさけ」の成瀬も他のキャラクターとは違いガラケー持ちだったわけですが、彼女やシュタゲの萌香みたいなコミュ障キャラは基本的にコミュニケーションのチャンネルが普通の人よりひどく限定されているわけです。ですので唯一のコミュニケーション手段である携帯には普通の人より強く力をかける(物理)ことになる。
多分「ここさけ」の成瀬がガラケーを使ってるのはお家の経済状況がよろしくないことを暗示しようとした部分もあるのでしょうが、それよりもやはり「コミュ障キャラはボタンをぽちぽちしなきゃいけない」わけです。スマホだと画面をさらっと触れるだけでメッセージを送れてしまうので、コミュニケーションもなんだか軽くなる。でもガラケーなら、そしてガラケーを介してのコミュニケーションに命を懸けてる人ならば、ボタンを押す音にも圧力にも気迫がこもってくる。そういう演出効果を踏まえてのガラケーなのでしょう。
LINE、ワープロ、手書き、声
ガラケーに関して言えば、映画内でLINEの会話が映像にオーバーラップする形で表示されていたのも面白かった部分ではあります。
成瀬の中では、コミュニケーションのやり方に重み付けが存在しています。彼女にとってはパソコンや携帯で打った文字が一番軽くて、次が手書き、自分にとって一番重いメッセージは声(叫び)として出てくるのです。彼女が序盤持っている手帳には手書きでズラズラと文字が書かれているし、坂上が歌うところを覗き見したのがばれたシーンで画面を埋め尽くす「見られた。」の文字は全部手書き。映画内で成瀬が重要なメッセージを残す場面でも大抵手書きの置き手紙が使われていたような気がします。うろ覚えですが。成瀬がミュージカル台本を全部ワープロで印刷してきたというのは、彼女の家の苦しい経済事情を考えれば少し不可解なところです。でも、そのミュージカルの台本が自分の思いを遠回しに、婉曲的に伝えるものだと考えれば、あの原稿を手書きで書くことは彼女にとってはむしろ「重すぎた」のかもしれません。手書きで書くとあまりにリアリティが増してしまって、ほとんど坂上に対する告白に近いものになってしまうので、ワープロで無機質に書く他なかった。
「ここさけ」における未回収の伏線に思える仁藤の「坂上のアドレス知らない」問題も、このメッセージのリアリティについて考えると少し納得がいくかもしれません。二人の間には、携帯を介した「軽い」メッセージのやり取りがなかった。だから少しのすれ違いで一気に関係が気まずくなってしまった。二人のコミュニケーションは、中学生のカップルにしては不釣り合いなほど重すぎた。だから坂上は、交流会準備をきっかけにして仁藤と「他愛もないこと」を喋れるようになったことを喜ぶ。今までそういう会話が成立しなかった間柄だったのでしょう。
たまごって結局何だったんだ
最後まで見ても私には結局よくわからなかったのが「たまご」について。幼少期の成瀬が母親に父の浮気を報告しようとしたときに口に突っ込まれるのが卵焼きだったり、そういえば成瀬のパパは顔が卵型だったなあ(そこ!?)という風に、作品全体として成瀬のトラウマが「たまご」という物体/概念に集約されてるのは明らかだったのですが、なんでたまごじゃなきゃいけなかったんですかね。殻を破るという要素を入れたかったからなのか。ミュージカルを扱っている作品なのでもしかしたら何らかの有名なミュージカルに登場するたまごを参照していたのかもしれませんが、私はミュージカルに詳しくないので分からず終い。知ってる人いたら教えてください。