『The Blackwell Companion to Philosophy』章末問題自己流解答(二章まで)

 

The Blackwell Companion to Philosophy (Blackwell Companions to Philosophy)

The Blackwell Companion to Philosophy (Blackwell Companions to Philosophy)

 

昔この本を読んでいたときに記述して溜めていた解答を発掘した.溜めておいても腐るだけなので放流して供養.

 

注意
  • 筆者は哲学の専門家ではありません.
  • 日本語文献に当たっていないため,用語の日本語訳がおかしい可能性が十分にあります.
  • 三年前くらいにちまちま書いていた解答で,今現在この本を読み進めるモチベーションはないためこの解答が更新される可能性には期待しないでください.
  •  この解答を参考にしたことで生じるいかなる不利益に関して筆者は責任を負いません.

Part I Areas of Philosophy

1 Epistemology

1. justificationの定義と比べればそれ程重要ではない。私たちが何らかの命題を正しい"知識"として認識するとき、その行為は知識そのものよりも正当化のプロセスが持つ性質に強く依存しているからだ。


2. 私たちは幻覚、夢などで誤った命題を正しいものと思い込むことがある。極端な懐疑主義者は、我々が正しいと思っていることが全て間違っている可能性がある以上我々は実質的に何も知らないに等しいとした。

 

  3.Gettierの挙げた例は、命題pの真実性ならびに主体Sによる正当化の事実が保証されていながら、結果としてその真実性と正当化のプロセスが全く噛み合っていない事象を提示した。直感的に知識とは言いがたいその例は、それまで知識の定義を「正当化された真なる信念」(justified true belief)、つまり

  1. Sが命題pを信じており
  2. 主体Sが命題pを信じる正当な根拠があり
  3. 命題pは真である

としてきた可謬主義(fallibistm)にその定義の修正を迫った。

参考文献

Reed, B. (2002). How to think about fallibilism. Philosophical Studies, 107(2), 143-157.

 

4. 外在主義externalism は、信念の正当化原理を主体の思考の外部に求める。例えば、信頼性主義reliabilismは、信頼性の高い認知プロセスによって得られた信念を「正当化された信念」として扱う。(この問題の解答としては不適切なのは分かっています。問題では「信念以外に何があるか?」と訊いているのに対し、解答ではそれを「信念の正当化において信念以外に使われうるものは何か?」という問題に勝手にすり替えているからです。ただ、テキストの流れとしてはここでinternalismとexternalismの対立について問うていると解釈する方が自然ですし、信念以外に何があるかという議論はそもそもテキストの対象外です。なので、わざとこのような解答にしました。externalismの中には知識の基礎自体を信念以外のものに求める一派もあるようで、その一派の思想をここで答えて欲しかったのかもしれませんが、あいにく私は不勉強でそのあたりに疎いため、ここではひとまず保留。)


5. dependent beliefはfoundational beliefそれ自身ないしそれに支えられて成立するものである。具体的にどのように支えられているかについては本書p41にいくつか仮説が挙げられているが(deductive/inductive/criterial)、それらは全て同じページ内で論破されてしまっている。そもそもここでこの疑問に対する答えをちゃちゃっと用意できるならfoundationalismはもっと流行ってるはずである。


6. 一つ目の問いについては、それに対してyesと答えるのが認識論の一派coherentismである、としか答えようがない。coherenceの定義がいかに難しいかは本書p41-42で述べられていて、二つ目の質問への答えは本書のスタンスとしてはnoである。


7. yesと答えるのがinternalismでnoと答えるのがexternalism(問4とモロ被りになってしまっているのでやはり私の問4の解釈は間違っているかもしれない)


8. externalistならnoと答える。というか、noと答えたくて「主体に対する正当化の理由の非自明性」をもとに議論を構築したのがexternalismである。internalistなら……分からん。


9. yesと答えたのがalvin goldman。これに対する批判としては、「これを前提にして研究を行うのは認識論というよりは心理学の仕事であり、この前提の正しさこそをしっかり検証すべきだ」とか?本書にはそんなようなことが書いてあるが、知識概念そのものに対しての批判というよりは学者の研究姿勢に対する批判じゃないのかコレ…


10. "help to explain"というか、justificationの原理をまさに説明してる概念なんじゃなかろうか。


11. ない。古典的な解答としてはデカルトの言うコギトということになるが、ウィトゲンシュタインが私的言語論の中でデカルト独我論の可能性を否定している(我々がコギトの概念に辿り着くためには言語が必須だが、その言語は自身と他者との交流によってしか獲得され得ない。独我論的世界観においては、言語の習得が不可能であるばかりでなく、そもそも言語を習得する動機が存在しない)。


12. 個人的には後者。科学哲学なり法哲学なりが各分野においてはとりあえず成立しそうな正当化の要件を探り、それを統合する形で認識論が頑張れればいいのでは。


13. 既存の認識論に対する反例。それを一つの成立した議論と見なすよりも、既存の理論をより深化させるための足掛けとするか、正当な理由を挙げて無視するかした方が良い、というのが著者の主張。


14. その問いの根拠の堅牢さを調べればよい。デカルトが自身の議論の中で採用した"evil demon"は、唯我論を展開するための道具立てとして用いられただけに過ぎず、荒唐無稽といってもよいその説に真っ向から取り組む必要はない。


15. カントは、感覚器官が受け取ったデータを感性・悟性によって経験へと変換するそのやり方自体のせいで、懐疑主義者が唱えるような特殊な状況が発生しうるとした。つまり、私たちがそれと知らずに誤った命題を正当化するという状況は私たちの認識の構造が生み出したものであり、感性・悟性に基づいたfoundationalismであるカントの認識論においてそれらはやはり正当化される。カントの認識論が正しいのかどうかはまた別の議論である。


16. 夢を見ている可能性はある。が、カント的に言えばそこにおいても経験は正当化されている。


17. Yes。それでもカント的には略


18. その物体が認知されることに依存せずに存在すると言えるならば、その物体の性質を定性的に述べることが出来るので、問いは「物体はこの世界の誰にも認知されていない時にも存在しているか?」と言い換えられる。これにNoと答えるのが懐疑論者。yesと答え、その根拠として「誰も認知してなくても神様は見てるから!」とするのがデカルト/バークリー。根拠として「もしそこに認知者がいれば認知されていたでしょ」という仮定法を持ち出すのが現象学者。


19. この思考実験が本文中に提示されておきながらそれに対する解釈がどこにも書かれていないので推量になるが、恐らくそう考えるのは過激すぎる。我々は生理学/解剖学を用いて自らの認知のプロセスをある程度明かすことができる。もちろん解剖を行う者自身もヘルメットを付けているのだから、彼が発見する人体の仕組みもそれ相応に歪んだものになるだろう。ただ、認知のブラックボックスが維持される形で人体の研究が為されるようヘルメットに細工がされている、という段階まで行ってしまうと問14で挙げた"evil demon"の状況に近くなる。一種の思考実験として認識論を洗練させるためのスパイスとはなるが、その可能性を真面目に考えるほどのものではない。


20. yes。Gilbert Ryle は「全ての経験は偽の誤った経験である」とする懐疑論に対して(実は懐疑論はそのようなことを主張してはいないのだが)、"polar concept"という概念を提出する。コインが偽造されているということを知覚するためには我々は本物のコインをも知らなくてはならない、という例を敷衍して、彼は「あることが誤っていることを知るには正しいとはどんなことかを知らなくてはならない」と唱え、それを知るためにはその知識を過去に実際に適用した/ないし今目の前の状況に適用できる必要があると主張した。つまり、我々が「全ての経験は誤っている」と認識できるのは正しい経験が何かを知っているからである、そして正しい経験が何かを知っているということは我々は正しい経験に遭遇したことがあるということを意味する、よって懐疑論は間違っているとした。この議論には「そもそも懐疑論者はそんなこと言ってない、ただ単に経験が誤っている可能性が遍在していることを指摘しただけだ」とか「知ることと適用することの同値性が自明ではない」とか「二項対立の存在を理解しただけで概念そのものを理解したとするのはおかしい、例えば無限と有限という対立を知ることと無限の概念自体を体得することは別問題だろ」とかいったツッコミ所があるが、単体では嘘くさい懐疑論がその展開の中で重要な示唆をする好例である。(というのがこの問いへの解答としてまるまる本文に書いてあるのだが、これは別に懐疑論が"jointly require"してるわけではないんだよなあ。ただ単にあるひとつの懐疑論の誤った理解をもとに議論を構築したら面白いことになりましたよというだけで、懐疑論の結合が重要な問いに繋がるという例としては不適切だと思う)


21. 前者はある種の策略として自身の論の中で使われるもの。後者はその問いへの答え自体がひとつの重大な議論を作り上げるもの。前者を後者のように処理するのは無意味であり、後者を前者のように扱うのは機会損失。


22. 一つ目の問いの答えは神のみぞ知る。二つ目に関しては、ウィトゲンシュタインの立場は一人称というよりは二人称的な対話重視の認識論であるように感じる。


23. どちらがいいのかは知らない、というか評価が定まっていないので個人の主観としてしか答えようがないが、ひとまず前者が超越論的アプローチ、後者が現象学的アプローチ。


24. 質問の意味がよく分からず。「私たちが何かを経験しているという可能性が私たちの確かな信念なしには不可知であり、にも関わらずその信念が間違っているということはあり得るか?」


25. 個人的にはカントの立場に就きたい。現実から得られた感覚情報が感性・悟性によって処理された結果が経験。


26. 現象学のcounterfactuals に対する批判としては、「counterfactuals の成立が過去の我々の経験を与件としているのに、実際の我々の経験が今度はcounterfactualsが成立していたという可能性を与件としていて、循環論法である」というのがあるらしい。出典ウィキペ英語


27. 唯物論に近くなって、マルクスみたいな弁証法唯物論が出てくるんじゃないんですか(小並感)


28. yes 問11に書いた通り


29. これは面白い問い。疑うことと認識することの相関を問うているという点では問20で出した"polar concept"に通ずるものがある。そこでの議論を引っ張ってくれば、「疑いようがない≒否定できない=認識できない」という図式は誤っているということになる。もう少し問題形式に真摯に答えると、「疑うことの出来ない命題は認識できない」という命題は絶対的に真ではありえない。もし絶対的に真ならこの命題それ自身が疑うことのできない命題であり、現に私がこの命題を認識出来ているという事実と矛盾をきたすからだ。もっとも、今私が疑っているという事実をしてもってこの命題に絶対的な真偽が定まることはないということは容易に導かれるのだが。ではどうやってそのような命題を認識しているのかと言えば、これはそのような命題の具体例が挙げられない以上どうしようもない。ここでは恐らく共時的に疑いようがないだけでなく通時的に見ても疑いようがない命題を求められているが、そんなものがあるなら今の学問はこんなに細分化していないだろう。もしこのような命題がどこかにあるとして、それが疑う余地のある命題とどのように関連しているか問うとすれば、「全ての疑う余地のある命題は疑う余地のない命題に到達するために問われている」とでも言えるのではないだろうか。命題においても大統一理論のようなものがあるのではないかというただのフィーリングに基づいた答えだが。

2 Metaphysics

この項、章立てがざっくりしすぎている上に質問の意図がいまいち掴めず、あまり出来がよろしくない。著者のSimon Blackburn 教授は一般向けの哲学書も何冊か執筆しておりそちらの評判は上々なので、むしろ私の頭の出来がよろしくないのかもしれないが。


1. 形而上学の信頼性はfamiliar classとして定義されるものの信頼性に作用される。もちろん、familiar classとexotic classの関係性の定義の仕方も形而上学の信頼性に影響を与えるが、その関係性が脆弱なものである場合は関係性に修復を加えればよく、形而上学の試み自体は成立していると言える。物質界の因果関係を探るのが自然科学だとすれば、それと精神との関係を明らかにするという形で形而上学の問いは生じる。


2. 両方。前者はrevisionary metaphysics、後者はdescriptive metaphysics(問4の答え参照)


3. その必要はないとしたのがプラグマティズムと結びついた多元論。("conceptual scheme"という用語が何を指し示しているのかがいまいち。形而上学における理論の構造と見なせば「familiar classとexoticの関係を明らかにすることが共通の特徴である」と言えるが、ここではfamiliar classの置きどころという観点から問いたかったのか?と解釈)

 

4.そもそもテキスト中の記述だけだとdescriptive metaphysicsとrevisionary metaphysicsの線引きがいまいち分からない。出典元であるところのP.F.Strawson "Individuals"にも当たってみたがそちらでも記述が曖昧だったので、ここではKriegel, U. (2013). The epistemological challenge of revisionary metaphysics. を全面的に参考にしながら話を進める。

 Kriegelによれば、二つのmetaphysicsの定義は以下のとおり。

  • descriptive metaphysics : 私達が持っている認識の構造が現実の物質界の構造と対応していると仮定して、現実の構造を探る形而上学
  • revisionary metaphysics : 私達が持っている認識の構造と現実の物質界の構造は必ずしも対応していないと仮定して、私達の認識とは独立して成立するような現実の構造を探る形而上学

 「Strawsonの定義とだいぶ違くない……?」という印象を受けるが、Strawsonがラッセルの述語論理に基づいた論考"Individuals"の中で自身の形而上学をdescriptive metaphysicsだとしているところを見ると、上の定義も概ね正しいように感じる。というか、他に話を発展させることができる程度には具体的な定義が見つからなかったので、この定義はひとまず正しいものとしておく。

 さて、複数のrevisionary metaphysicsの理論があったときに、どれを採用すべきか、すなわちどれがより正当かを判断するための基準をここで考える。Kriegelによれば、この基準が持っていなければいけない性質は次の二つだ:真実性(truth-conduciveness)と識別性(discriminateness)。

 真実性(truth-conduciveness)は、その基準が真でなければならないということ。Kriegelは基準の一つの例として簡潔さ(simplicity)を挙げた上で、「簡潔さが真実性を帯びるためには、世界の簡潔性という原理が効力を持たなければならない(for simplicity to be truth-conducive, a principle of the simplicity of the world would have to hold.*1 ) 」「アポステリオリなものとしての世界の簡潔性の原理は全くもって実証されておらず、アプリオリなものとしてはカント学派でない限り恣意的なものだ。(as a posteriori, the principle of the simplicity of the world is remarkably unsupported; as a priori, it is arbitrary unless Kantian.*2 )」として、簡潔さには真実性がないとしてこれを却下している。

 識別性(discriminateness)は、妥当性という観点から複数の理論を識別できるということ。我々が知覚から得る情報は、この識別性が欠けているためにrevisionary metaphysicsにおいて基準たり得ない。目の前にリンゴがあったときに、「微粒子が作り出す形状が我々にリンゴというものを知覚させるだけで、実際には世界には『リンゴ』なるものは存在しない」と主張するnihilismと、「微粒子のみならずこの世界には微粒子が作り出すリンゴも確かに存在する」と主張するrestrictivismとを比較検討する際に、知覚から得られる情報は参考にならない。どちらの主張を採用しても、知覚から得られる情報は「目の前にリンゴがある」に変わりないからだ。

 では、真実性と識別性、どちらも備えた基準はなんだろう……とここに来て、Kriegelは口ごもる。どの基準を採用するにしても、解決しなければならない課題は山ほどある。「これがrevisionary metaphysicsのキソだ!」と断言できるような基準は、今のところない(質問文で"might"を使っているのはそういうことであろう)。

 というわけで、質問に対する解答としては「simplicityとかmodestyとか、正当化のための考えられる候補はいくらでもあるけど、どれが確実かは現時点では何とも言えないよ」といったところだ。一つ一つの基準がどのようなものでいかなる問題点があるのかは、Kriegel(2013)を参照してほしい。ここに書くと長くなりすぎる。

 

5. できる。というか、倫理的・政治的影響は考えないほうがよいのでは。他の分野への示唆をもとにして形而上学を考えると、それは真実性よりも有用性を重要視するようになるが、プラグマティストでない限りそのような見方は害悪である…といったことがKriegel(2013)に書かれている。


6.正しい。が、誤解を招く表現。形而上学者は存在そのものについて考えるというより、どのようなものが存在しそれらがどのようなカテゴリの下に属すかを考えてきた。(と、分かったような口ぶりで書いてみたが、私にはこの二つの違いがよく分かっていない。本書p62の内容を引き写しただけである。)


7. 分析哲学やら意味論やらが形而上学の手法としてはダメだったというのは本書にある通り。質問文に誠実に答えるなら、受け入れられる方法はない。


8.質問文の解釈にあまり自信がない。
「どうして形而上学は自身の可能性に夢中になっているのか?」という意味なら、答えは「哲学には出来て科学には出来ないことがある、という(実証されておらず疑いの余地が多い)ことを形而上学者は信じているから」。


9.1つめの質問は意味が分からず。二つ目の質問はイェス。


10. 本文中には形而上学の制限に関する記述は何もなかった気がする。制限はないのでは。


11. 例え同時期の形而上学が答えを出せなかったとしても、その時期に見られた偏見ないしabsolute presuppositionを後の時代の形而上学で明らかにすることができるので形而上学をそう簡単に行き詰まったと判断すべきでない


12. 一部の多元論者はプラグマティズムと結びついて、真実性よりも有用性を追い求めるようになった。その点から言えば形而上学の少なくとも一部は意義がある。


13. そもそも私たちは私たちが今抱えているabsolute presuppositionを認識することができない。よって答えはNO


14. 言葉の定義の問題か?absolute presuppositionに気付くことが出来ずある一定のボーダーの内側で行う思索をphilosophical reflectionに含めるならNO、含めないならYes。自身がabsolute presuppositionに囚われていないことを証明できない以上、形而上学は終わることの決してない学問である。


15. residual referenceって何…?


16. 現状ない。


17. descriptive metaphysicsのことなら述語論理とかsingular intuition(Kriegel(2013)参照)とか。revisionary metaphysicsについては問4を見よ。


18. そんなん分かりませんよ!今のところは正しいとしか。


19. ラッセルの理論って述語論理ってことですよね。それは分析哲学ごと過去に否定されたんですが。


20. exotic classをfamiliar classから出来ているものとして見なすのが形而上学における還元主義。どのようにexoticを決めるかはどのようにfamiliarを決めるかに依存し、どのようにfamiliarを決めるかは各学者のスタンス?


21. descriptive metaphysicsは我々が持つ認識の構造をもとに考えるので、除去する必要はない。KriegelにもGeneral Intuitionなる例が挙がっている。


22. 分析哲学のことを言っている?だったら答えはNO。解析される言葉自体が歴史的に構築されたもので、形而上学的に中立だと信じる根拠は何もない。


23. どちらも形而上学からは中立な理論の立脚を目指したが、形而上学から中立である以上それらは形而上学上の問題を解決できない。


24. 現在は地続きであるという見方が主流。


25. 24であげたようなnaturalistにとってはそれが主流。


26. 哲学者は学問の様々な分野から提出される説を統合して一つの見解を示さなくてはならず、抽象のレベルが科学より高いから?


27. いいえ。自由意志は何か、自然界の法則はなぜ今あるようになっており今後もそれが続くのか、といった問いに存在論は答えられない。


28. 本文中には何も書いてないから個人の見解になるけど、付随性(supervenience)の議論って要するに還元主義だよね?私としては還元主義はもうダメだと思っていて(これは還元主義に対する一般的な見解でもあるけれど)、形而上学はidentityについて扱うべき。


29. 問4と重なる。真実性がなくても分かりやすければ良いというのはプラグマティズムの発想で、形而上学プラグマティズムではない。


30. B-theoryだとNO


31. いいえ


32. B-theoryだとNO


33. B-theoryだとYes

 

 

*1:Kriegel (2013), p19

*2:同上

『ヒルガードの心理学(第16版)』 評論問題自己流解答

ヒルガードの心理学 第16版

ヒルガードの心理学 第16版

↑に出てくる評論問題の答えは公開されてない(答えが一つに定まるようなものではないので当然)ので,自分流の解答を垂れ流してみる.適宜更新.

注意
  • 筆者は心理学の専門家ではありません.
  • この解答を信頼することによって生じるいかなる不利益に関しても筆者は責任を負いません.

第1章

評論問題(p.9)

1.
univ-journal.jp
大学の研究結果をもとにしているのでまあ信用できるのではないでしょうか.

2.
論文化された結果をもとにしているから.事実であることを知るには心理学的知見を持った上で原著論文を読む必要がある.
元論文:Punishment diminishes the benefits of network reciprocity in social dilemma experiments | Proceedings of the National Academy of Sciences
ちなみに元論文の最初を少し読むだけで,この研究のキモは「懲罰条件での協力回数が予想よりも低く,既存の理論における懲罰の重要性に関して再考が必要である」という点にあることがわかる.が,上記ニュース記事の方ではその点が抜け落ちている.やはり元論文を読むのは大事.

評論問題(p.15)

1.
生得説:人は生まれながらにして世界に対する知識を持っている
経験説≒連合主義心理学:人は生得的な知識・観念を持っておらず,経験の中でそれを身につける
構成主義:人間の精神構造はより小さな要素に分解することができる
機能主義:人間は環境に対して適応する中で心的機能を獲得する(参考:Functionalism).
行動主義:人間は条件付けによって行動を学習する.
ゲシュタルト心理学:人間の知覚経験は知覚刺激の全体的構造によって変化する
精神分析:人間の行動・思考は無意識によって影響を受ける

2.
・相いれないもの:生得説-経験説 構成主義-機能主義
・相いれるもの:その他?(生得説と経験説に関しては他のものと相容れない)

評論問題(p.25)

1.
生物学的枠組み:性的指向を脳内の化学物質の分泌の差や脳の構造の差などに帰属させる.
性的指向と脳の構造差について:Biological Perspectives on Sexual Orientation - Oxford Scholarship
行動的枠組み:性的な刺激を提示した際の人間の行動の違いを調査することで,特定の指向と行動の結びつきが観察されるかを調べるなど?
認知的枠組み:性的指向と意思決定プロセスの関連を調べるなど?
例:性的指向と空間把握能力の関連について調べた研究
精神分析的枠組み:幼少期の家庭内教育やトラウマ経験が性的指向を形作るプロセスを調べる?
主観主義的枠組み:個人の対人関係が性的指向に与える影響を調べる?

2.
従来臨床心理学で問題となってきたような明らかな精神的疾患を扱うための心理学ではなく,人々が日常においてより幸福度の高い生活を送られるような要因を探る心理学(ポジティブ心理学)などが考えられる.

評論問題(p.39)

1. もとから攻撃的傾向のある少年が暴力的な番組を好んで見ているだけである,という可能性がある.因果関係を調べるためには,同程度の攻撃的傾向を示している複数の少年をいくつかの群に分け,それらの群で暴力的な番組を視聴してもらう時間を変えてもらうことによりテレビ視聴が成長後の攻撃的傾向に与える差を調べる必要がある.

2. 摂食障害と身体的外見へのこだわりとの間にはある程度の正の相関が存在する.つまり,身体的外見にこだわっている人ほど摂食障害を抱えている可能性が高い.これは因果関係である可能性もある(「外見にこだわりすぎるために摂食障害になる」「摂食障害になると外見にこだわり始める」)し,擬似相関である可能性もある(例:幼少期における親の教育方針によって,食事を摂らなくなると同時に外見へのこだわりが生まれる).仮に「身体的外見へのこだわりが摂食障害を引き起こす」と仮説を立て検証するならば,身体的外見へのこだわりに関する質問紙調査を摂食障害の有無に関わらず定期的に実施し,摂食障害を抱える前に身体的外見へのこだわりの上昇が発生しているかを検証する必要がある.
(少し自信がない解答.時間的な前後関係を特定すれば仮説を検証したものとしてok?)

第2章

評論問題(p.49)

1. (思いつかないので調べた)
人間の言語能力.あくまで学説の一つ,という段階であり未だ論争は存在するようだが,ヒトが言語能力を前適応により獲得したとする学派が存在する.例えば,喉の発声器官はもともと鳴き声や吠え声を出すための器官であったが,この器官の存在によって言語の発話が可能となった,という学説がある.
参考: #544. ヒトの発音器官の進化と前適応理論

2.
神経系は人間の思考などの生物学的・物理学的基盤であり,その機能や仕組みを知ることでボトムアップな心理学理論の構築が可能となるため重要である.個人的にはこの主張に同意.トップダウンの理論構築(観察された結果から人間の情報処理の抽象的モデルを作り上げるようなもの)ももちろん重要であるが,神経科学的な基盤に基づいた心理学の歴史は浅く今後の大いなる発展が見込まれる.また,人工知能開発に対する知見の提供など心理学を超えた貢献が期待される(と思う).

評論問題(p.56)

1.
グリア細胞ニューロンの生存環境を整えるなどの裏方的な役割だけでなく,神経信号の伝達において非常に重要な役割を果たしている可能性がある.例えば,グリア細胞の一種であるアストロサイトはシナプスの伝達効率を制御している可能性が示唆されている.
参考: グリア細胞

2.
脳の一部分の神経信号伝達を止めることにより,ある部位に対応する機能を停止させることができる?(自信なし)

評論問題(p.58)

1.
利点

  • 抑制性と興奮性の神経伝達物質を使い分けることにより,神経発火の促進および抑制が可能となる.
  • 伝達にかかる時間の違いを利用することで,素早く発火する神経回路と遅く発火する神経回路の共存が可能となる.
  • 神経伝達物質を使い分けることにより,特定のニューロンだけに神経信号を伝達することが可能となる.

など
参考:What is the selective advantage for having multiple neurotransmitters for a neuronal system? - Quora
欠点

  • それぞれの伝達物質を生み出すための生成器官の存在が必要?
  • 結合可能なシナプスのペアが限定されるため,可塑性が制限される?

(欠点の方は自信なし)

2.
神経伝達物質を飲んでもそれがそのまま脳に届くというわけではないのでは?

評論問題(p.74)

1.
自然界において,捕食者が左右どちらかの視界に多く現れたり,餌が左右どちらかの側に多く存在することはない.そのため,脳の構造が左右対称であることによって,自然界で遭遇する様々な事象に対してより効率的に反応できるようになる.また,両手で何かを行う場合などの並行処理も対称性によって行いやすくなる.また,脳の対称性が言語能力を強化したり,創造性を強化している可能性がある.
参考:books.google.co.jp
Chapter 4: Cerebral Hemispheres

2.
脳梁が切られている以上右脳と左脳の間で情報のやり取りはなく,そのため意識の流れも右脳と左脳で別々に存在する.つまり,離断脳の患者は右脳と左脳に別々の心を持っている.
...というのが定説であったが,近年この定説に疑義を呈する研究結果が発表されている.Pinto et al. (2017)*1 は,離断脳の患者においても右目に提示された刺激(=左脳に伝わる)を左手で回答できることを報告した.このことに基づき,Pinto et al.は脳が分離された状態においても二つの脳を統一する唯一の意識は存在すると主張している.一方,この結果は意識が一つしか存在しないことを必ずしも意味せず,二つの脳が微妙な筋肉の動きなどの手段によって脳梁を利用しない情報伝達手段を獲得しているだけである,という主張も存在する*2

評論問題(p.75)

1.
特定のホルモンのみに反応するレセプターを利用することで,身体の特定組織に選択的に作用する.
参考:Overview of Hormone Receptors and Signalling

2.
甲状腺から出る甲状腺ホルモンは身体全体の新陳代謝を増大させ,体温を上げる役割を果たす.また,(これはホルモンは特に働きに関与していないと思うのだが)汗腺から汗を出すことによって体温を下げることができる.
参考:https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC209345/#B2

評論問題(p.85)

1.
環境の影響も強く受けるため.例えば,アルコール依存症の割合は遺伝子だけでなくアルコール消費に対する文化の許容度やそもそものアルコールの手に入りやすさによって変化する.
参考:https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3192029/

2.
高度な数学的思考力などは遺伝的に計画されていない思考の例であろう.人間は教育によってこの行動を次世代に伝達することができる.

第3章

評論問題(p.96)

1.
自分の子供だから当然関心を持つのでは?そして多くの場合それは子供の発達にプラスに働く?

2.
愛着の発達に重要な時期に適切な愛情を受けなかった子供は愛情を持つ能力に問題を持ち,児童虐待を受けた子供が将来親になった際に児童虐待を起こす,などといった問題を引き起こす.
参考:Critical Periods and Critical Moments for Attachment | Psychology Today

評論問題(p.101)

1.
乳児の頃の記憶を成人になって思い出すことができる,というのは乳児の時からエピソード記憶を保持していたことを意味するが,これは定説と相入れない.この章で紹介されていた記憶はエピソード記憶ではない.そのため,乳児の頃の記憶を思い出せると主張している成人は単に偽の記憶を持っているだけではないだろうか.
参考:Why Don't We Remember Being Babies?

2.

*1:Pinto, Y., Neville, D. A., Otten, M., Corballis, P. M., Lamme, V. A., De Haan, E. H., ... & Fabri, M. (2017). Split brain: divided perception but undivided consciousness. Brain, 140(5), 1231-1237. https://academic.oup.com/brain/article/140/5/1231/2951052

*2:Volz, L. J., Hillyard, S. A., Miller, M. B., & Gazzaniga, M. S. (2018). Unifying control over the body: consciousness and cross-cueing in split-brain patients. Brain. https://academic.oup.com/brain/advance-article-abstract/doi/10.1093/brain/awx359/4812597?redirectedFrom=fulltext

ザハ・ハディドの都市デザインにおける「動き」と「コミュニケーション」:ポスト・フォーディズム時代における批判的地域主義に向けて

大学の講義のレポートとして出そうとしたら見事に締め切りオーバーしたのでここで供養します。かなしい
教授用に出すレポなので講義で扱った細かい理論展開は端折っていたりするんですが、後で元気がある時にそこらへん含め加筆するかもですね

1.はじめに

 本記事では、イギリス在住の建築家ザハ・ハディドによるいくつかの都市デザイン、特に2006年にコンペで優勝したイスタンブールの都市Kartalにおける都市デザインに注目して分析を行う。まず、アヴァンギャルド建築における一つの方法論”Parametricism”についてZaha Hadid Architectsのディレクターであるパトリック・シューマッハが著した論考を概観し、コルビジェが「人間の道」とともに提供した都市における秩序性がザハによる「ロバの道」においてどのように宿りうるかを検討する。次に、ハディドにおける建築のアイコン性を指摘し、地域間の差異が形態の差異へと回収されてしまうハディドの都市デザインは彼女の建築と同様資本主義のロジックに留まったままであり、Parametricismは批判的地域主義に擬態したインターナショナルスタイルに他ならないのではないかという問題提起を行う。この問題に対する一つの解答を探るため、ハル・フォスターが著書『アート建築複合態』で記したザハ・ハディド論を下敷きとして彼女の建築の系譜を明瞭化したのち、2000年以降のハディドの建築が観客を流動化させる働きを持っていることに着目する。観客の流動化に伴うコミュニケーションの活発化という可能性から、ハディドの都市デザインはメディアが嵌入した現代の「多孔的都市」においてタコツボ化した文化の間を架橋する触媒としての役割を果たし、極度に流動化したポストフォーディズムの時代における批判的地域主義の一つの実例ではないかという提案を行う。

2.P.シューマッハによる”Parametricism”論 — 人間の道からろばの道へ

ハディドによる都市デザイン案は、彼女の建築と同様極めて流線的である。Kartalにおける彼女のマスタープランのイメージ(下図)において、ハディドの有機的な建築は従来の硬直した都市デザインをあざ笑うかのように天空へと突き上がり、周囲の方形の建物と挑発的なコントラストを形成している。この極めて新未来派的な形態は、しかし、ハディドの建築の美学が要請したものでなくて何であろうか?そこに、都市デザインにおける秩序性・社会性の観点は存在しているのだろうか?これはただの芸術的カオスに過ぎないのではないか?
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 Zaha Hadid Architectsのディレクターであるパトリック・シューマッハは、このような見解を一蹴するだろう。この形態は確かにカオス的であるかもしれないが、それは秩序を持ったカオスなのだ。これが、彼が信奉する”Parametricism”の思想、およびその方法論である。
 Parametricismの思想は、建築におけるその形態から辿るより、むしろ建築設計の道具であるソフトウェア(CAD)の観点から辿る方が理解しやすい。ニューメディアの理論家であるレフ・マノヴィッチは、あらゆる芸術作品の創作過程にますますコンピュータのソフトウェアが入り込みつつある現代において、ソフトウェアという統一的観点からあらゆる視覚文化における美学の成立を図ろうとする”Software Studies”を提唱している。そこで彼が唱えるソフトウェア時代の美学の一つに、「あるエフェクトを、それに付随する幾つかのパラメータを指定することで実行する発想」というものがある。例えば画像処理を行う際に「ぼかし」というエフェクトを選択し、ぼかしの度合いをパラメータとして指定する、といった具合である。P.シューマッハが唱えるParametricismは、まさにこのソフトウェア時代の発想と共進化して生じてきたものなのだ。ハディドとシューマッハは、その土地固有の形態をパラメータに「都市」というエフェクトを実行し、その結果をマスタープランに出力している、と言っても過言ではないだろう。
 P.シューマッハの論(2009)に話を戻そう。彼は、フライ・オットーが行った一連の実験に着想を得て、ハディドの都市デザインにおける秩序性を説明する。フライ・オットーは、都市における分散居住と集中居住をモデル化するために次の実験を行った。まず、水面に幾つかの磁石を浮かべる。これらは互いに反発し合い、都市における「分散居住」のモードをシミュレートする。次に、今度は同じ水面の上にさらにポリスチレンのチップを加える。これらは互いに近付き合い、都市における「集中居住」のモードをシミュレートする。磁石とポリスチレンが置かれた水面において生じたパターンは、現代都市における居住のパターンに酷似していたという(下図)。
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フライ・オットーによる実験。下が実験において生じた都市居住のパターン。P.Schumacher(2009). p.18より
 ここで重要なのは、オットーはパターンを発生させる手助けをしたかもしれないが、彼は厳密な意味では彼の発生させたパターンの作者ではないということである。彼はむしろ、引力と斥力という二つのパラメータを指定し、居住というエフェクトを水面上でシミュレートしてみせただけに過ぎない。
 シューマッハはオットーのその他の実験(例えば複数の地点間を最短距離で結ぶような道路のモデリング)の紹介も行っているが、ここではその詳細は割愛する。ここでシューマッハが主張しているのは、彼およびハディドが製作した都市デザインは実際のところ彼らが厳密な意味で作り出したものではないということだ。地形というパラメータを指定して作り出された最短距離のネットワークは極めて有機的ではあるが恣意的なものではなく、ボトムアップに成立した最短距離という秩序がそこには宿っているのである(下図)。彼らはこれに加えて、「生じた区画の面積に反比例して建物の高さを変える」「土地の東西の横幅に比例して建物の高さを変える」といった秩序を計画に導入し、後のシミュレーションはコンピュータに任せるのだ。シューマッハはその論考においてコルビジェの「人間の道」「ろばの道」を引用しつつ、彼らの計画が持ちうる秩序性についてこう説明する。

Le Corbusier’s limitation is not his insistence upon order but rather his limited conception of order in terms of classical geometry. Complexity theory in general, and the research of Frei Otto in particular, have since taught us to recognise, measure and simulate the complex patterns that emerge from processes of self-organisation. (P.Schumacher(2009). p.18)

 コルビジェがある種の視野狭窄に陥っていたのは、彼の古典的地理学に対する理解のなさというよりも、彼の時代におけるテクノロジーの未発達によるものが大きいのではないかと私は感じる。しかし、いずれにせよ、複雑系の理論を実践のレベルにまで引き込んだParametricismは、その土地の地理学をパラメータとして完全に考慮に入れつつ、これまでにないほど複雑で有機的な都市デザインを生み出すのであり、そして、 —シューマッハの論じるところによれば— ザハ・ハディドはこのParametricismの体現者であり、第三機械時代の建築家にふさわしい、というのである。
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3. Parametricismの欺瞞 — 批判的地域主義か、アイコン的建築か—

 シューマッハが述べるParametricismの思想は、一見すると都市デザインにおける究極の理想を語る心地良い言説のように感じられる。それは一種の普遍的なデザインを志向しつつも、同時にその土地の固有性を完全にその計画に内包しようと試みているからだ。言うなれば、それはインターナショナルスタイルと批判的地域主義の究極の弁証法だ。しかし、この思想は、真の意味で土地の固有性に根ざしたものとなっているのであろうか?
 ハディドが生み出す都市デザインは、良くも悪くも「ザハ・ハディド的」である。例えば彼女によるシンガポールのビジネス地区「One North」のマスタープラン(下図)は、その形態においてKartalにおけるプランと似通っている。彼女の都市デザインは、彼女の建築における流線型というモチーフを反復しているに過ぎないのかもしれない。2つのマスタープランにおいて、表情を失った周囲の方形の建物から浮かび上がるような優雅さで表象される彼女の建物は、有機的秩序への賛美という仮面の下に隠された流線型への純粋に美学的な賛美を図らずも露わにしているのではないだろうか。この2つのマスタープランの間に、「シンガポール」と「トルコ」という地域的差異は果たして現前しているのか?Parametricismというテンプレートに土地の形態に合わせて多少変形を施し、それをその土地に投射しただけのプランが、果たして批判的地域主義の一翼を担っていると主張することは許されるのであろうか?
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P.Schumacher(2009) p.16より
 ザハ・ハディドの建築におけるアイコン性の問題は、新国立競技場を巡る一連のハプニングにおいてくっきりと前景化している。飯島洋一は『「らしい」建築批判』においてハディドを含めた現代建築家のアイコン性への志向を痛烈に批判しているが、彼の論の発端となるのは新国立競技場計画においてハディドの提出したプランを採択した審査委員会への違和感である。建築における被膜のポップさ、高度資本主義において大衆に訴えるアイコン性を極端に追求したハディド案は防災面及び予算への配慮が著しく欠けており、その案を採択した安藤忠雄率いる審査委員会は彼女と共犯関係をなしているというのだ。審査が行われたのは東京オリンピック誘致が決まる前であり、審査委員会は視覚に訴えるこの案を採用することで招致活動を有利に進めようとした。計画の現実性よりも視覚的スペクタクルを重視するこの潮流において、地域に根ざした建築など可能なのだろうか?
 ここで飯島が批判するのは他でもない、審査委員長安藤忠雄の建築である。《住吉の長屋》(1976)(下図)で安藤が実現したのは、「社会性」からの撤退である、と飯島は述べる。「盲目的な経済至上主義へと一気に方向転換していった」当時の日本において、公共性の回復を図ろうとした安藤が作り出した建築があの《住吉の長屋》だというのは、なんとも理解しがたいことである。窓がないコンクリート造りのその建築はひたすら閉塞的であり、それはむしろ公共性・社会性から積極的に撤退しているように感じられる。安藤はこの建築を通して、資本主義への抵抗の素振りを見せながら実のところ資本主義の理論に積極的に加担していたのだ、と飯島は論じる。雨の日は傘なしにトイレに行くことができないといったスキャンダラスなこの建築は、その見た目の強烈なアイコン性をともなって資本経済に流通したのであり、安藤はポップでアイコニックな建築によって建築界のスターダムにのし上がったのだ。この時に捨象されるのは、その土地の固有性・歴史性に他ならない(この建物は本当に「長屋」なのか?)。
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"Azuma house". Licensed under CC 表示-継承 3.0 via ウィキメディア・コモンズ.
 ザハの建築において生じている事態も、安藤の場合と同じなのだろうか?彼女が生み出す都市デザインが、その視覚的インパクトを利用したマーケティングに秀でたものに過ぎず、権力者の富と技術の象徴として利用されるとすれば、そこで土地の固有性は保全されうるのか?Kartalマスタープランにおいて天空へとそびえるあのタワーは、21世紀のトルコで突如現前した前世紀マンハッタンの摩天楼の亡霊なのかもしれない。
 しかし、純粋に資本主義的でない建築など、現代に果たして存在するのだろうか。資本主義はその抵抗運動までもを自身の円環の中に巻き込む。そこでは、あらゆるものがポップでアイコニックである。「ポップである」という一点において画一的となってしまった建築と批判的地域主義は相容れないのではないか。一般的に批判的地域主義の実践者であるとされる安藤忠雄を、飯島はこう評する。

 《プンタ・デラ・ドガーナ再生計画》では、安藤のトレードマークの打ち放しコンクリートは、他の作品と比較して、それほど前面には押し出されていない。この建築に関しては、安藤が歴史性と場所性に敬意を払っているのは認めないわけにはいかない。しかし《プンタ・デラ・ドガーナ再生計画》は、安藤の作品の中で、あくまでも例外的なものである。基本的に安藤忠雄の建築は、幾何学性と抽象性が強く、多くの人がそう考えているほど、歴史性や場所性に準じてなどいない。彼の建築の主軸は、あくまでも幾何学の論理に裏付けられた、打ち放しコンクリートの箱である。(飯島(2014).p.118)

 コンクリートという安藤の作り出したアイコン性から彼自身が逃れることができなかったように、資本主義は固有性の成立を不可能か、ないし困難なものにしてしまう。現代において、固有性を保った建築・都市計画はもはや不可能になってしまったのだろうか。それとも、固有性の保持は資本主義と共存しうるものなのか。

4.直線から曲線へ ザハ・ハディドの美学

 ここで、ザハ・ハディドの建築の系譜を辿っておきたい。彼女の建築はしばしば空間の固有性を保持していると評されており、それは彼女の建築に対する思想と相関しているのではないかと考えられるからである。以下、ハル・フォスター(2014)『アート建築複合態』を参照しつつ、彼女の建築史を「1.シュプレマティスム構成主義弁証法」「2.未来派と表現主義弁証法」という二分法にしたがって考察する。

4-1.シュプレマティスム構成主義弁証法

 ハディドの初期の建築 — それらはほとんどが実際には建築されずに終わったため、未建築などと呼ぶ方が適切かもしれないが — は、シュプレマティスムの影響を強く受けたものとなっている。彼女のAAスクール卒業制作の絵画タイトルが《Malevich’s Tectonik》であるのはこのことの何よりの証拠だ。1983年の絵画作品《世界(89度)》(下図)において、遠近法は歪み、平面図・立面図などの建築の二次元的表象は全て混交され、一つの絶対的空間を形成している。例えば絵の右上部に注目すれば、大地から伸びる高層ビル・線路と電車を連想させる世界の裏側から伸びてきた直方体群・奇妙に歪められたアイソメ図などが並置されていることが確認できる。かつてシュプレマティスムがそうしたように、ここでは上と下・中と外・図と地といった観念は全て失効しており、全ての建築・およびそれを眺める主体は、ある種宙に浮いた形で存在しているのだ。実際にハディドは、初期のプロジェクトにおいて彼女の建物がいかに宙に浮いたものであるかを説明しているのだ。
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 しかし、ここで一つの疑問が生じる。シュプレマティスムの助けを借りて建築を観念的な空間へと持ち込んだのち、どのようにすればその建築を再び現実の大地に接地させることが可能となるのか?フォスターの言葉を借りれば、

とはいえ、いったん宙に放たれたのち、これらの建造物はどのようにして再び接地させられることになるのか?マレーヴィチは、指示対象の発現を抑え込むばかりでなく、観者へのとも綱を解くことによっても、自らの抽象を作りあげた。(中略)これは、絵画におけるラディカルな振る舞い(ジェスチャー)だった。だが、それははたして建築でも有効な振る舞いなのか?こうした浮遊状態のなかでは、対象はもちろんのこと、主体はいったいどこに存在するのか?(H.フォスター(2014) pp.121-22)

 フォスターによれば、建築を大地に接地するにあたり彼女によって援用されるのが構成主義だ。構成主義が純粋に抽象的かつ物質的な彫刻を空間内に固定させたように、彼女はその純粋に抽象的な表象を建築として現実空間内に固定させることができた。実際、ヴラジミール・タトリンが《コーナー・レリーフ/カウンター・レリーフ》(1914-)において作品を空間に浮遊させるためにワイヤーを使用したように、ハディドの初期のプロジェクト《ヴィトラ社消防署》(1990-94)においてはその飛行機の機首を思わせる屋根は数本の棒によって支えられているのだ(下図)。
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4-2.未来派と表現主義弁証法

 上に挙げた《ヴィトラ社消防署》や、また《ローゼンタール現代美術センター》(1998-2003)といった、ハディドの初期プロジェクトにおいては、シュプレマティスムの影響が色濃く見られる。しかし、その後の彼女はシュプレマティスムの直線的幾何学よりも、むしろ曲線・流体といったフォルムをより用いるようになったように感じられる。この変異は突如生じたものではなく、流線型というモチーフは彼女のプロジェクトにおいて徐々に顕在化していったものであろう。ヴィトラ社消防署に関する彼女のHP上のコメントにはこう書かれている。

Conceived as the end-note to existing factory buildings, the Vitra Fire Station defines rather than occupies the space - emerging as a linear, layered series of walls, between which program elements are contained - a representation of ‘movement frozen’ - an ‘alert’ structure, ready to explode into action at any moment.(公式HPより引用)

 ここでいう’frozen motion’ — 「凍れる運動」は、のちの彼女のプロジェクトにおいては流線型の形を取って次第に顕在化していく。フォスターは、ハディドの建築が未来派の運動感覚、並びにそれを制御し抑制するものとしての表現主義の量塊の弁証法よって構成されていることを論じている。もっともここでフォスターは彼女のこの変異を移行というよりも論理の拡張として捉え、彼女の建築はシュプレマティスム構成主義・未来派・表現主義の混合としてあると論じるのだが、これは拡張ではなく移行として捉えた方が見通しが良くなるのではないか。彼女が実際に建てられることとなった初期プロジェクトを通じて「アンビルト」から「ビルト」へと移行するにつれ、彼女の問題は「シュプレマティスムの次元をどう現実へ移し換えるか」から「大地から生成しまた大地を生成し返すマッスをどう制御するか」へと変化してきたのだろう。

5.都市におけるコミュニケーション -- 批判的地域主義の一つの展望

 フォスターは、ある種の彫刻が観者へと現象学的に働きかけ、その彫刻が観者の積極的な活動を促し、ひいてはそれが観者同士のコミュニケーションへとつながるのではないか、という興味深い問いかけを行っている。ここで彼が取り上げているのは美術家アンソニー・マッコールの「構造映画」と呼ばれる一連の光のインスタレーションである。天井から地面に向かって投影される光の線は複雑な図形を描き出しながら緩やかに動き、同時に霧で満たされた空間内において光の軌跡は一種の「光の彫刻」を作り出す。観者はその光を遮ってみたり、地面に投影された光の軌跡を観察してみたり、円錐形をなす光のスポットライトの中に入り込んだりすることによって、その作品と自発的に戯れる。この空間内においては、作品と観者自身という個人的な関係が成立しうるし、また観者同時の関係という公的な関係もまた成立しうるのだ。「ここでは、まったく見知らぬ者同士が形態の錯綜の仕方について論じあう様子が、目撃できる。また、学校の生徒たちがヴォリュームの中で即興のゲームを発明しているのに、立ち会うこともできよう。」(フォスター(2014),p.255)

Anthony McCall: Between You and I
 翻ってフォスターは、このような観者と物体との動的な相互作用がハディドの建築では生じないと論じる。曰く、「皮肉なことにハディドの錯綜した図形では、彼女は観者 — 訪問者を活動的にするより、その動きを引き留めることになりかねない。」(フォスター(2014),p.131)つまり、彼女がシュプレマティスムの絵画をそのまま建築の表象に移行しようとした際に、シュプレマティスム絵画において措定されていた単一の絶対的主体の位置までもが移植されてしまい、また彼女の「凍れる運動」は観者までもを凍らせると言うのだ。私はこの意見には賛同しない。まず、近年の彼女はシュプレマティスムの影響をかなりの程度脱していると考えられるからだ。ハディドが近年の作品のために行ったドローイングにおいても、シュプレマティスム的な遠近法の錯乱は影に潜み、流線型のフォルムによる素描がメインとなっている。よって、絵画において生じていた単一の主体は彼女の近年の建築においてはそもそも存在しないのだ。そして、彼女のいわゆる「凍れる運動」は、しかし観者を相当程度に巻き込むものである。彼女の傑作のひとつ《東大門デザインプラザ》(2007-2013)では、建物にトンネルを開けるような形で敷地を横切る通路が存在するが、そこを通り抜ける際に人々はどこまでが建物の内側でどこからが建物の外側なのか、混乱を覚えることだろう。屋内・屋外にかかわらず流動的に繋がったフロア群もその混乱を促進させる。そこには、一地点で静止して観察する限りにおいては絶対に見取ることのできない構造の複雑性が存在するのだ。
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東大門デザインプラザにおいて建物を穿つように走る通路。ここは一回行ったことあるけどすごかった
 そもそもフォスターは、『アート建築複合態』の中で建築における「構造」と「被膜」という二項対立を一貫したテーマとして扱っている。それは、建築の際の原理においてどちらの成分がより強く出てくるかという観点から整理できるもので、バンハムが理論化した「構造」の代表的な実践者を例えば構造を建物の外に出すことにより内部の空間を押し広げたリチャード・ロジャース(《ポンピドゥー・センター》)、ヴェンチュールが理論化した「被膜」の代表的な実践者を例えば被膜におけるイメージのスペクタクルの創始者とも言って良いフランク・ゲーリー(《グッゲンハイム・ビルバオ》)に求めることができるだろう。そして彼は、現代資本主義においては両者の弁証法よりもむしろ「被膜」の優位が訪れている(それは資本主義における広告とほぼ同義である)としている。ハディドももちろんこの分類においては後者の「被膜」の理論に位置付けられる建築家である。彼女の非常にアイコニックな建築は彼女がイメージを建築に移し替える際に被膜のレベルで実現されるものであり、構造の形態はこの被膜の形態に従事しているというのだ。しかし、彼女の建築は被膜によって完全に支配されている、というのは誇張ではないか?彼女の建築における構造は、むしろ被膜によって完全に覆い隠されているのだ。市場経済に流通するアイコニックな被膜のイメージとは隔絶されたものとして、そこには構造の複雑性が存在する(ハディドの建築の被膜を見て、それが何階建てになっているか正しく推測できる人が果たしているだろうか?)。そしてその構造の複雑性は、マッコールにおける形態の複雑性と同様見る者の運動を促し、ひいてはコミュニケーションへと繋がる地平を見出すのだ。
 都市へのメディアの嵌入がいかに都市文化に変容をきたしつつあるかについて論じた論考集『メディア都市』において、繰り返し議論に上るのが「多孔的都市」という概念である。街頭の大型スクリーンやスマートフォンの画面が溢れる都市において、文化は都市の中に収まるのではなく、それらのメディアという孔から外部へと流出する。そこでは例えば、いかにして日本の文化が「日本」性抜きで消費されるか(『メディア都市』「第7章 世界を駆ける『アイアンシェフ』」)という問題が発生しうる。つまるところ、近年の都市においては「保持すべき地域の文化」が非常に曖昧なものとなりつつあるのだ。そこで起こっているのは、ポスト・フォーディズム的な「ファン文化」の揺籃である。批判的地域主義が保持しようとしたローカリティは、どこに見出すことができるのだろうか?
 安藤忠雄の建築が孔へ閉じこもるものだったとすれば、ザハ・ハディドの建築は孔を開け放ち、孔の内と外の区別を溶解し、孔と孔の間のコミュニケーションを促すものだということができないだろうか。多様化し孤立化したファン文化の間を架橋する媒介として、ハディドの都市はコミュニケーションを促進するある種の生態系を生み出すかもしれない。それも、被膜においては資本主義的なアイコンを維持しつつ、である。
 もちろん、批判的地域主義において焦点となるのは文化の問題一つのみではない。しかし、すべてが資本主義に回収される中で、地域性を保ったインターナショナル・スタイルを生み出す点において、ハディドの都市デザインは一つの答えを導き出したのではないだろうか。今後の高度資本主義における都市デザインを考える上で、ハディドのデザインの重要性はより増していくことだろう。

6.あとがき

 4くらいまでは割と自信に満ちて書いてたんだけど、5でちょっと途方に暮れてしまった感じがある。ハル・フォスターの本は面白いけど、やっぱりハディドの建築が観客を固定化するというのにはちと同意しかねる。あずまんもこう言ってるし:


多分ハル・フォスターの論を自分が完全に理解仕切っていないというのもあるかも。
あと、「批判的地域主義」という術語の使い方はこんな感じであってますかね......建築を真面目に勉強したことはないので用語法に間違いはかなりあるかも......

7.参考文献

ハル・フォスター(2014)『アート建築複合態』鹿島出版会
飯島洋一(2014)『「らしい」建築批判』青土社
石田英敬編(2015)『メディア都市』東京大学出版会
Lev. Manovich(2013). Software Takes Command. Bloomsbury Publ.
Schumacher, P. (2009). Parametricism: A new global style for architecture and urban design. Architectural Design, 79(4), 14-23.

『マイノリティ・リポート』試論

※この記事は大学に提出したレポートネタの流用です。

 

 さて、映画批評家の三浦哲哉氏が、『サスペンス映画史』という本を書いています。

サスペンス映画史

サスペンス映画史

 

  ハリウッド映画史を「サスペンス(宙吊り)」という視座から辿り、映画黎明期のグリフィスから現代のイーストウッドまでをサスペンスの通史的展開と関連付けながら論じた大変スリリングな本で、特に私はメタフィクションの興隆をサスペンスの視点から論じた部分にとても感激しました。こんなブログの記事読む暇があったらこの本を読むべきです。

 で、この記事は特に本書の中のスティーブン・スピルバーグ監督(2002)『マイノリティ・リポート』を論じた部分に触発されて書いたものです。なお、以下ネタバレだらけです。

 

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「ここさけ」ゆるゆる感想(※ネタバレ有)

 いろいろとあって映画「心が叫びたがってるんだ。」観てきました。

www.kokosake.jp

 「あの花」製作チームが再結集して錬成した作品らしいです。あの花を観ていない自分としては「まあいい感じの岡田麿里脚本が見られればいっかな〜」くらいの気概で観に行ったのですが、結論から言えば良かったです。綺麗な岡田麿里作品でした。

 

 以下、無慈悲なネタバレをしながらゆるゆると語るので未視聴者はブラウザバック推奨。基本的に一回観ただけでこの文章を書いてるので所々間違ってるところもあるかもしれませんがご容赦ください。

 

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スプラトゥーン ブキ別参考プレイヤーリスト

※管理人がsplatoon実況鑑賞に飽きたためこの記事は現在更新を停止しています

 

いやぁ〜スプラトゥーン楽しいですね。プレイ動画を見るのが。

WiiUを持ってないなりにスプラトゥーンを楽しもうとした結果、ニコ動でのA+プレイヤーリストがかなり溜まったのでここに放流します。スプラトゥーン持ってる人は活用してください。

 

選定の基準など

  • ガチマッチウデマエA+(カンストかどうかは判断が難しいため基準にしていません)
  • 主に使用しているブキ別にまとめました。複数のブキを使用しているプレイヤーは「複数ブキ使い」の項にまとめてあります。
  • 特にオススメのプレイヤーには短評を付けてあります。

 

複数ブキ使い

わかばシューター

スプラシューターコラボ

プライムシューターコラボ

.52ガロン

ジェットスイーパーカスタム

ホットブラスターカスタム

スプラスコープ

スプラスコープワカメ

リッター3K

スプラローラーコラボ

ダイナモローラー

ダイナモローラーテスラ

パブロ

複数ブキ使い

☆mikan_2525

使用ブキ:なんでも

シューター・ブラスター・チャージャー・ローラーどれもを使いこなすオールラウンダー。丁寧な解説と堅実なプレイングが魅力。

迷ったらまずこの人の動画から見ましょう。

 

シン

使用ブキ:シューター・ブラスター・ローラー

 

SIGUMA

使用ブキ:シューター・ブラスター

 

しろねこ

使用ブキ:シューター・ブラスター・ローラー

 

アスキス

使用ブキ:カーボンローラー・リッター3K

倭寇

使用ブキ:ブラスター・ローラー

 

りんごもちぃ

使用ブキ:シューター

 

なってぃ

使用ブキ:.52ガロンデコ・.96ガロン

 

しーかです。

使用ブキ:チャージャー

 

じょんどぅ

使用ブキ:シューター

 

2+2=5

使用ブキ:ローラー・ブラスター

 

あかん

使用ブキ:.96ガロン・スプラシューター

 

わかばシューター

KGM

 

たまたま

 

スプラシューターコラボ

☆たいじ

立ち回りAIM共にすこぶるレベルが高く、A+帯の中でも頭一つ抜けた実力を持つ。実況やコメント解説こそないものの、その立ち回りは一見の価値あり。

 

プライムシューターコラボ

げよげよ

http://www.nicovideo.jp/user/1367268/video

 

.52ガロン

☆ギコ(シールド)

A+帯では珍しいスプラッシュシールド使い。シールドのポテンシャルをフルに活かした立ち回り、ステージの壁や縁を利用した独創的なプレイが魅力。

シオノメ油田の裏取りテクニックはシールド使いに限らず全ガチエリアプレイヤー必見。

 

ジェットスイーパーカスタム

レツ

 

ホットブラスターカスタム

ねぎとろ

 

にゃあふぁっじ

http://www.nicovideo.jp/user/20982436/video

 

スプラスコープ

ゆうりょうBoy

 

ろぜっぴー

 

スプラスコープワカメ

ハクビシン

 

リッター3K

ストナ

 

やままる

 

 

スプラローラーコラボ

†らんでぃあ†

 

うたたね1ごう

 

このみ

 

ダイナモローラー

ひよっこ

 

キングゴリラたける

 

ダイナモローラーテスラ

インゲン

 

パブロ

先端恐怖症

 

 

 

 

『描写の芸術 - 十七世紀のオランダ絵画』読んだ

 

描写の芸術―一七世紀のオランダ絵画

描写の芸術―一七世紀のオランダ絵画

 

  フェルメールに代表されるオランダ風景・静物画を「描写」の芸術と定義し、イタリアルネサンスの物語芸術と対比させてその思想的背景・芸術的価値を探った書。西洋美術史において一つのターニングポイントとなった本らしい。つまりは美術史のピケティか(なんでもピケティに喩えればよいというものではない)。

 

 線遠近法をもとに構成されたイタリア絵画は物語性に溢れており、それに対して現実の書き写しにしか見えないオランダ絵画は「含蓄のない見掛け倒しの絵だ」と非難されていた、というのがこの本の背景事情としてまずある。筆者はここにメスを入れ、現実の正確な描写そのこと自体が当時オランダで重きをおかれていたことであり、それ自体が一つの価値として成立していると主張する。これは美術解釈の伝統的手法であった図像学(イコノロジー)の拒絶だ。

 

 主張は絵画の解釈の問題にとどまらず、描写が重視された当時の社会的背景にまで話が及ぶ。この部分に関しては論理が荒削りな部分もないことはない。例えば観察の重視を示す事例として筆者はベーコンの思想を挙げるが、いくら同時代人とはいえベーコンはイギリス人である(これは訳者があとがきで補足している通りである)。ケプラーのレンズについての話を観察の優位に結びつけるのは面白かった。

 

 ところで私は美術史関連の本を最近になって読み始めたのだが、これが予想以上に面白い。対象となっている西洋絵画にはぶっちゃけ1ミリの関心もないのだが、最近街中で美術展の宣伝ポスターが貼ってあるとチラチラ目が行くようになってしまった。単に「ほえーこいつの絵うめえなあ」といった消費の仕方ではなくて、小難しいことを考えながら積極的に絵を読み解こうとする方が私の性分に合っているようだ。