『マイノリティ・リポート』試論

※この記事は大学に提出したレポートネタの流用です。

 

 さて、映画批評家の三浦哲哉氏が、『サスペンス映画史』という本を書いています。

サスペンス映画史

サスペンス映画史

 

  ハリウッド映画史を「サスペンス(宙吊り)」という視座から辿り、映画黎明期のグリフィスから現代のイーストウッドまでをサスペンスの通史的展開と関連付けながら論じた大変スリリングな本で、特に私はメタフィクションの興隆をサスペンスの視点から論じた部分にとても感激しました。こんなブログの記事読む暇があったらこの本を読むべきです。

 で、この記事は特に本書の中のスティーブン・スピルバーグ監督(2002)『マイノリティ・リポート』を論じた部分に触発されて書いたものです。なお、以下ネタバレだらけです。

 

映像の権威の失墜

 『マイノリティ・リポート』が明らかに映像を主題とした作品であることに関しては特に異論はないでしょう。主人公アンダーソンの職務は、プリコグの見る断片化された予知イメージを再構成することです。それはもはや映像のノンリニア編集に他ならないと言っても差し支えないでしょう。この作品は「映画史」についての作品である、とまで言い切る論考も存在します*1

 一方、ここで問題となっている映像は、今現在の先進国における映像と等価なものとして扱うことを拒む性質を持っています。この作品における映像は証拠能力を喪失しているのです。プリコグの見る予知映像に犯罪予防局職員の解釈が重なり合わされることで、初めて犯行を特定することができるように、また、VRエンターテイメントクラブ(?)であらゆる映像娯楽が楽しめるほど映像生成の技術が発達しているように、この時代における映像「そのもの」の真正性は無条件に保証されるものではありません。翻って、この作品は視覚の優位性が衰退しつつある世界における物語と見ることもできます。

本作に登場する「眼」は、もっぱら個人の認証(eye-dentification)を行うための受動的な器官としてのみ扱われており、社会を監視したり、隠された真実を見出すための能動的な器官としては、もはや機能していないのです。*2

  このことは、アンダートンが以前の眼球を使ってプリコグの住まう聖域に侵入しようとした際にうっかり手を滑らせ、眼球がコロコロ地面を転がり落ちていくコミカルなシーンに象徴的に現れています*3

 先ほどの三浦氏の論考に紐付けて論じるならば、映像それ自体の重要性が低下し、映像を読み解くリテラシーがより肝要になったからこそ、単一の映像が複数のイベントを同時に包含しうるという事態を戦略的に用いることが「映像」による専制を逃れる鍵となります。主人公アンダートンも犯罪予防局局長ラマーもこの映像のトリックを用いており、これが映画の核となっています。映像によってよもや未来が確定され、定められた未来を待つのみという「サスペンス(宙吊り)」状態においても、このトリックを用いることで観測結果を変更せずに未来を変更することができるのです*4

 スピルバーグはこの「映像の権威の失墜」を視覚的演出を用いてかなり意識的に表現しているように思われます。まず、プリコグの予知イメージを考えることから始めてみましょう。

映像の「儚さ」

  映画の中に登場するプリコグの予知イメージは、だいたいこんな感じです。

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 こんなのわざわざ言語化して論じるまでもありませんが、これら予知イメージには特異な編集が施されています。縁がぼやけている。ピントも多少ぼやけている。おまけに彩度が低い。

 単純に「こんなのプリコグが見てる夢のイメージなんだからもやもやしてて当然じゃん!」と言ってしまえばそこまでなのですが*5、少しひねくれた見方をして、この映像を「真正な映像の情報量を落としたもの」として考えると、色々と面白いことが見えてきます。

 「情報量を落とす」というのはここではそのままの意味であると同時にメタファーです。実際に符号化した際のファイルサイズはともかくとして、これらの映像には「解釈」が決定的に欠落しています。この犯罪はどこで行われるのか。どのような手順で行われるのか。等々*6。で、こいつらに解釈を与えてやるのがアンダートンたちの仕事です。

 上の見方を支持するシーンが、実は映画中には少し存在します。物語の終盤、ラマーの犯罪が大衆の前に暴露されるシーンです。そこでスクリーンに映し出されるプリコグのイメージがこれです。

f:id:kn2423:20151105222644p:plain そう、ここでは映像の彩度が元に戻っているのです。おまけにピントも心なしかくっきり合っている気がする*7。これはなぜかと言えば、ここで映し出される犯罪映像は解釈が決定してしまっているからです。ラマーの犯罪は場所も動機もトリックも、余すところなく公衆の目に晒されるため、ここでメタファーとしての「情報量の欠落」は生じません。だから映像の情報量も復活するわけです。

 さて、ここで少し視点を変えて、「作中で、これらの予知イメージがどのようなスクリーンに投影されているか」に注目してみます。だって、こんな↓場面がいっぱい出てくるとなるとやっぱり気になりますもん。

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 予知イメージが投影されるのは、たいてい半透明なスクリーンなんですよね。私がつべこべ論じる前に既存の論考から少し引用してみます。

このフィルムでは多くの映像がその背後から示される。ホームビデオは3D映像であり、予知映像は透明なスクリーンに映し出される。見る者の姿が映像を透かして重なる。切り返しを行わずに見る者の表情を映せるという演出上の利得があるのは確かだ。しかし強調されるのは、むろん映像と現実の等価性ではなく映像の儚さである。*8

 この映像の「儚さ」、これが上で述べた「情報量の欠落」と繋がってきます。映像単品では情報量が不足している。それが現実と同程度の強度を持つためには主人公による解釈行為が欠かせないわけです。

 半透明なスクリーンと人間のオーバーレイという観点から言うと、作中には他にも面白いシーンが存在します。それも、半透明なもののオーバーレイではなく不透明なもののオーバーレイが行われるシーンです。

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  アガサと逃げるアンダートン。アガサに待つよう指示されたアンダートンが人混みの中で辛抱強く待つと、風船売りの行商がちょうどやって来て風船がアガサたちを追っ手の視界からすっぽり隠した......というシーンです。ほとんど同じようなネタを今度は傘を用いて行われるシーンもあるのですが、ここでは不透明なもの(風船・傘)によるオーバーレイが発生しています。このシーン、追っ手たちは「クソっ、見失った!」と面白いように追跡を諦めるのですが、これはまさしく目の前の光景が「儚さ」とは程遠い、いわば明晰であったがために引き起こされた反応です。追っ手は風船の後ろに主人公たちが隠れているという解釈を完全に見落としています。半透明な映像の「儚さ」が、不透明な映像の「力強さ」を通して逆説的に喚起されるシーンです。

映画フレームにおける「儚さ」のメタ的適用 

 やー、ずいぶんと舌足らずな章題ですね。要するに、上で述べてきた「儚さ」のテクニックが映画のショット自体にも用いられている部分があるよね、という議論をここでは提起したいのです。映画の中で提起された「儚さ」の表象体系の、映画そのものへのメタ的な適用です。

 具体的にどうやってやってるの、という点ですが、ここでは光による演出に着目してみます。光の遮断・屈折・反射という視点です。

 分かりやすい例から行きましょう。物語終盤、ラマーがパーティー会場で自身の犯行映像を眺めるシーン。

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 彼は、ガラス越しに映像を眺めようとします。ガラスにおける光の屈折・反射は、今やはっきりとしてしまった彼の犯行映像に再びあのモヤモヤを持ち込みうるものです。ここで彼は、ガラス越しに眺めることによって映像の情報量を落とし、それによって映像の解釈をも欠落させようとしているのです。もちろんそんなことはできません。これはあくまでもラマーの身振りです。ラマーの心情と「儚さ」の表象を重ね合わせることで、ここでは映画の演出のレベルにおいて「儚さ」のテクニックがメタ的に適用されています。

 もう少しチャレンジングな、言い換えれば主張している本人もあまり自信がない例を取り上げてみます。アンダートンがスラム街の一角に追い詰められ、フェンスを背に追っ手に取り囲まれているシーン。ここでは、フェンスの後ろから一堂の表情を映し取った印象的なカットが存在します。

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 さて、これも光がフェンスという構造物によって遮断されある種のモヤモヤが確保されているのですから、「儚さ」の表れであるとして解釈してみましょう。では、ここで一体何が欠落しているのでしょうか。

 答えはこの後のカットに存在します。この後カメラはアンダートンの正面に回り込みますが、ここでフェンスの裏から突然犬が吠えながら登場するのです。このビックリ要素をきっかけにアンダートンと追っ手の喧嘩が始まります。このシーンで欠落していたのは、「フェンスの裏にある空間が持ちうる解釈=犬」だったのです。多分。この、「空間の意味が確定できない」という緊張が解かれることによって、初めて小競り合いが始まります。

 ここで少し議論を整理してみます。ガラス・フェンスといったこれらの平面は、光を屈折・反射・遮断することによって、それらの平面によって隔離されたどちらかの空間に「儚さ」を生じさせます。ここで「どちらか」とわざわざ述べたのは、平面によって隔てられた二つの空間の主客関係が後に重要になってくるからです。一つ目の例ではラマーがスクリーンに投影される犯行映像という客体を解釈する主体に、二つ目の例ではアンダートンと楽しい追っ手たちがフェンス裏の空間という客体を解釈する主体となっています。

水、そして主客関係の溶解

 いよいよやってきました。「水」です。映画中のあちこちに登場する「水」は、明らかに映画全体の一つのシンボルになっていると同時に、一番読解が厄介な代物でもあります。ですが、光の屈折・反射・遮断の平面が生じさせる解釈の主客関係という、上で延々と論じ続けてきたラインに沿って読み解くと、ある程度見通しの良い理解を得ることができます。

 まず、水が登場する重要なシーンを挙げてみましょう。

  • アンダートンがプールに潜っている間に息子が行方不明になるシーン
  • アン・ライブリーがラマーによって溺死させられるシーン
  • ちっこい機械グモから逃れるために、アンダートンが風呂の氷水に潜水するシーン

 これらに共通するのは、水面を介した「儚さ」の生成が問題になっているという点です。水面は光を反射・屈折させ、あのモヤモヤとした感じを生み出します*9。そしてこのモヤモヤは「儚さ」を生み出し、その「儚さ」を解釈する主体・客体関係を生成します。

 ここでは、この「儚さ」の生成は良いようにも悪いようにも用いられるというのがポイントです。プールの水面によっておぼろげになった息子の姿は、行方不明になり生死の解釈も定まらない次元へ送還されることを暗示し、沈められるアン・ライブリーの姿も同様に事件の解釈の定まらなさを暗示します*10。アンダートンはこの「儚さ」の生成を戦略的に用いることで、氷水に潜伏し追っ手から間一髪で逃れることができました。追っ手目線で言えば、その時のアンダートンは消えては現れる熱源で、それこそ「大きいネコ」なのか「人間」なのか解釈の定まらない客体だったのです。

 本作で、三人のプリコグは水面に浮かべられています。ここでの水の使用は何を象徴しているのでしょうか。水面を境とした主客関係の生成という観点をそのまま適用することはできません。彼らは、水中にもいなければ外にもいないからです。ここで主題にされているのは、むしろこの「関係が適用できないこと」それ自体でしょう。解釈の主客関係、ひいては「解釈」という行為そのものさえも、プリコグには成立しません。彼らは結局予知夢を見させられるだけの存在なのですから。水面に不気味に漂うプリコグは、解釈行為が不可能な受動性の極限状態です。だからこそアンダートンは、アガサをこの水面という「受動性」から引きずり出して、彼女自身に言葉を語らせ、未来に介入する主体として行動してもらう必要があったのです。

 

参考文献

中村秀之(2003)「少数報告は存在するか — フィルム・ノワールと(反)アメリカ的なものの現在」、『現代思想』、6月臨時増刊(三十一巻八号)、pp.76 - 93
山本直樹(2008)「映画への回帰 — 『マイノリティ・リポート』再考」、藤井仁子編『入門・現代ハリウッド映画講義』、人文書院、pp.41 - 66

*1:(山本, 2008)

*2:(山本 2008、p.51) 

*3:(山本 2008, p.51)

*4:このトリックは2011年前後にやたら流行ったADVゲーム『Steins;Gate』においても採用されています。ADVにおけるメタフィクションに関しては東浩紀(2007)『ゲーム的リアリズムの誕生』がとても参考になりますが、似たような議論が映画史の文脈からも登場しているのはなかなか興味深いです。このおかげで私は最近ギャルゲーと映画におけるメタフィクションのナラトロジーの接合を考えているのですが、それに関してはまた余力のあるときに。

*5:夢の色空間において彩度が低いのは自明じゃないけどね

*6:ホシとガイ者の名前、あと犯行時刻がアプリオリに与えられるのは何でなんでしょうかね。多分脚本的にそのくらいの情報の小出しが一番面白いんじゃねという判断だろうとは思いますが。

*7:実は映画中のこの一連のカットにはあまり一貫性がなくて、パーティーの客が見ているスクリーンに映し出されている予知イメージがあのモヤモヤイメージだったかと思いきや次のショットではくっきり鮮やかイメージになってたりするのですが、ここでは目をつぶりましょう。

*8: (中村  2003、p.90) 

*9:この効果は特に、アンダートンがプールで潜水している間に息子が消えるシーンにおいて印象的に使用されています。潜ったアンダートンが波打つ水面を通して、輪郭のおぼろげな息子を視認するPOVショットが存在します。

*10:細かいことを言うと、アン・ライブリー溺死シーンにおける解釈の主体はラマーではありません。ここで問題になっているのは予知イメージを見る我々であり、我々がアン・ライブリー事件に対して確かな解釈を持ち得ないことが象徴されているのです。