『視覚文化「超」講義』読んだ

 

視覚文化「超」講義

視覚文化「超」講義

 

  第二次大戦後の「視覚」文化、つまり美術・映画・楽曲MV・マンガ・ゲーム・アニメといったものを総括するような本。全体的に議論が散漫な印象をどうしても受けるので、この本一冊で視覚文化全体を一つの視座のもとにすっきりと俯瞰できるとは思えないが、大まかな見通しを得るために読む本としてはおすすめ。文章も分かりやすい。

 この本の凄いところはなんといっても扱っている題材の広汎さで、『「超」講義』と銘打つだけのことはある*1。本書のキーワードとなる「ノスタルジア」「ガジェット」といった概念を「バック・トゥ・ザ・フューチャー」三部作に求めつつ、シュルレアリスムが楽曲MVの起源になっていたり、バーチャファイターMMDの普及がアニメスタジオ「サンジゲン」に代表される日本製3DCGアニメの受容のきっかけとなっていたり、と主張するその引き出しの広さには圧倒される。おまけにドゥルーズジジェクボードリヤールなどの思想家も随所に登場し、視覚文化を語り尽くすための一大スペクタクルがそこでは展開されている。

 と同時に、むしろだからこそと言うべきかもしれないが、本書の主張はどこかまとまりが感じられない。アメリカにおけるハイカルチャーと大衆文化の融合を絵画について考察していたかと思いきや、突然映画におけるメロドラマの展開に話が移っていく。ちょこちょこ登場する「ノスタルジア」「フェイク」「ホビー」といったキーワードが、特定の作品ないしジャンルの分析を超えてどのような視座を提供するのか・どの程度の有効射程を持つのかといった性質を明記されないままフェードアウトしていく。

 これは筆者の思想がそもそも体系性のないものである、という発想には繋がらないだろう。巻末にある哲学者・國分功一郎氏との対談を読む限りだと、筆者の中には視覚文化に対するかなり体系だった理解があって、ただそれを上手く文字に起こすことができていないだけであるように感じる。もしくは、読者としての私に教養が圧倒的に足りないか。恐らく後者だろう。文章が分かりやすく、章単位で言えば主張も明快であるのに、「一冊の書籍」としてその思想を捉えようとすると雲をも掴むように感じられる不思議な本である。

 本書は、情報過多の時代においてどのように情報を消費するか、というテーゼに対して一つの解答を提示している。

しかし私は大事なのは減速や離脱には限られず、リズムの尺度を複数化させることだと考えます。(中略)加速、減速といった対比されるモデルの多くは、速度変化、知性・感性の混入の様々なモードとして、より一般化されうるとい見通しを抱いています。*2

  ここで「速度」が何なのかが明確に定義されておらず*3、この主張について語る前にまず「速度」の解釈学から始めなければならないところがこの本の恐ろしいところではあるのだが、ここではひとまずそれは置いておく。

 本書を正しく読むためには、複数の速度を保持しながら読むこと、國分氏の言う「ギアチェンジ」が恐らく重要だ。文単位や段落単位だけではなく、章単位、さらには本全体を視野にいれた読みを同時並行することで、この本が描こうとしている視覚文化のネットワークを理解することができるのではなかろうか。思うに、この本は何も無数の点を繋げて一つの直線を引きたいのではなく、点の集合をその集合のままで読者に提示したいのだ。理解できなかった人間がこのようなことをのたまうのはただの妄言かもしれないが、本書で主張される情報の受け取り方が再帰的に本書にも当てはまるような状況はなかなか面白いと思ったので。

 

 完全に蛇足だが、表紙絵がスバラシイ。作者はJohn Hathway氏で、ここから彼の作品群を垣間見ることができる。ちなみに彼は根っからの日本人でJohn Hathwayはただのペンネーム。だまされた。東大の院で物理工学の修士を取ってたりもする、よく分からん人である。

*1:単純に対象作品の量から見ても超人的であり、同時に特定のジャンルを超越した考察が行われている。

*2:本書 p278

*3:私が読む限りでは、この本の中では「速度」という概念に「単位時間あたりの情報摂取量」と「モードの変遷の周期」という二つの相容れない解釈が与えられいる。