『「象徴(シンボル)形式」としての遠近法』読んだ

 

“象徴(シンボル)形式”としての遠近法 (哲学選書)

“象徴(シンボル)形式”としての遠近法 (哲学選書)

 

 

 

“象徴(シンボル)形式”としての遠近法 (ちくま学芸文庫)

“象徴(シンボル)形式”としての遠近法 (ちくま学芸文庫)

 

  (私が読んだのは上の単行本の方です。基本的に中身はどちらも一緒だと思われる)

 タイトルにある「象徴(シンボル)形式」とはカッシーラの用語で、ここでは遠近法を精神史の象徴(シンボル)、つまり主に人間の空間認識の表れとして読み解くことを意味している。(ちなみに著者のパノフスキー、カッシーラと同時代人なので本文の注に「カッシーラ本人に聞いてみたわ」とかポンと出てくる。すげえ。)難解だが面白い本。

 遠近法は、人間の視覚を厳密に再現したものでは断じてない、ということが最初の出発点。なぜかと言えば、人間の網膜は球形だから。つまり、目に移るものの大きさ(特に目線に直交する平面に置かれた物体について)は実際の長さではなく目に対する角度に比例している。線遠近法は、いつか達成される運命にあった絶対的に正しい描画技術ではないのだ。ここらへん、文字で説明するのも面倒だし図を描くのも面倒なのでぜひ自分の目でこの本を読んで確かめてほしい。

 この認識から出発して、古代〜近代の空間観を辿っていくのが本書。正直プラトン/アリストテレスの空間についての哲学は全く知らないのでそのあたりの記述はスルーしたのだが、例えば「古代においては物体が傑出しており、物体と物体の間にある何も無い空間は後退している」だとか「遠近法は、目に見える風景を数学的法則性のもとにおいて表すという点においては客観的であるが、同時に視点(消失点)を自由に設定することで厳密に表された空間を丸ごと主観に回収してしまう」だとかいった記述にはハッとさせられる。

 

 一つ注意しておくと、この本(元は論文)は大変読みにくい。注の分量が本文の二倍以上あるのがその主な理由だ。常に前と後ろを行き来するとともに注で引用される絵画をもいちいち参照するくらいの意気込みで読まないと完全な理解は無理だろう。現に私は注の半分も理解できたかどうか疑わしい。