『新版 アフォーダンス』読んだ

 

新版 アフォーダンス (岩波科学ライブラリー)

新版 アフォーダンス (岩波科学ライブラリー)

 

  アメリカの知覚心理学ジェームズ・ギブソンが生み出し、わかりにくいことで有名な概念「アフォーダンス」を基軸にして、認知科学についてのアレコレを分かりやすく語った本。私にとっては分かりやすかったのだが、いかんせんこういう話に触れるのがこの本で三回目になるので、客観的な判断は保留しておく。

 これより先、アフォーダンスについての考えを整理するための個人的覚え書き。クソ長い。

 

 アフォーダンスとは、環境の中に内在していて、動物に読み取られることを待っている情報のことである。例えば、ある一枚のペラペラの紙がここにあったとしよう。その紙を破ったり、丸めて投げたり、折り鶴をその紙から作ったりする一連の行為は、全てその紙に内在していたアフォーダンスをヒトが読み取った結果である。アフォーダンスは無限に存在している。紙にも多くの人にまだ読み取られていないアフォーダンスがあるかもしれない。床においた紙の上に人が座るというアフォーダンスはどうだろう?紙を食べるというアフォーダンスは?

 アフォーダンスに「正しい」「誤っている」といったような区分けは存在しない。デザインの界隈ではアフォーダンスという言葉は「あるモノの用途がユーザーに伝わるように、モノのデザインに施す工夫*1」という意味で用いられるが、これは誤用である。マトモな人は紙に内在する「食べる」というアフォーダンスを読み取らないが、ヤギはそれを読み取っている。さらに言えば、黒ヤギさんは手紙を読まずに食べてしまう。紙を文字の出力先とみるアフォーダンスを、ヤギは読み取っていない*2アフォーダンスは無限に存在しているが、人に読み取れるのはその一部である。

 

 ……というのがアフォーダンスの通り一遍の説明なのだが、あなたはこの説明を聞いて腑に落ちるだろうか。私の率直な感想は、

 「何でこんなムダにややこしい理屈が必要なんだ?人が刺激を知覚して、経験と推論をもとに判断して、行動を起こすっていうのが従来の認知のモデルでしょ?そっちの方が分かりやすいからそれで良くね?」

 人間が紙を切ったり丸めたり折ったりするのも、長年の歴史の中で誰かが発見して受け継がれてきた技術と見ればそれで良いではないか。人が紙を食べないのは「食べたけどマズかった」とか「食ったら腹下した」とかいった知識が広まっているからであって、何も「なんとかダンスがうんぬん~」と説明する必要はない。世の中を説明する方法が複数あって、どれも正しいようなら、一番シンプルなモデルを選択する。科学に携わる人間がここ二千年の間ずっとやってきたことではないか。

 ギブソンが初期に研究していた視覚について掘り下げると、この疑問に関する見通しが少しだけ良くなる。以下、この本に書かれてない個人的な見解も含まれるので注意。

 

 あなたの前に何か直方体があったとしよう。これを真正面から見ただけでは、どのくらいの奥行きを持つのかは分からない。奥行きを知るためには、頭を動かして別の角度から直方体を見る必要がある。

 この時、直方体の各面はさまざまな形の台形となってあなたの目に映っているはずである。視点を動かせば各台形の形も変わる。しかし、次々と変わっていく台形の内角の関係や辺の長さの比率には一定の法則がある。このように、視覚から得られる情報の変化において変わらないものをギブソンは「不変項」と呼んだ。人間は両目の焦点距離などから形状を判断しているのではなく*3、ものが持つ不変項を読み解きそれをものの形状とリンクさせている。我々はなにも自らの目の空間座標と物体の空間座標、重力方向に対する目線の角度などからヤヤコシイ計算をして「これは直方体だ!」と判断しているのではなく、直方体が持つ不変項を拾い上げているだけである。認知の機構としては明らかに後者の方が省エネではないだろうか。

 不変項の存在を考えると、あらゆる情報は私達が自力で編み出したのではなく、モノに内在する何かを読み取った結果だと考えた方がスッキリする気がする。「ものの中にアフォーダンスが実在する」と言うよりも、「ものの物性と私達の身体の相互作用の中で何かしらのアフォーダンスが立ち上がってきて、我々はそのアフォーダンスを読み取って『こいつの使い道を俺が自力で見つけたんだ!』と言い張っているに過ぎない。見つかる使い道は我々の思考よりもむしろものが持つ物性・アフォーダンスに依存する」と表現した方が分かりやすいだろうか。もっとも、こう言い換えてしまうとアフォーダンスについてのギブソンの定義からは少し離れてしまうのだが。

 

 アフォーダンス理論は、デカルト心身二元論認知科学の立場から突き崩すという点において重要である。(と、私は勝手に考えている。)

 ヒトが「歩こう」と思った時に、いちいち両足に存在する腱全てに脳から逐一命令を送っていると考えるのがデカルト的理解である。しかし、足に存在する腱の自由度を考えるだけでもとんでもない組み合わせ数となる。地面の傾き、凸凹なども考慮した上で全ての関節をきちんと制御して歩かせることが困難なのは、この考え方に基いて作られたASIMOの歩きっぷりを見ればよく分かるだろう。

 もう少し実証的な例を挙げよう。プロの卓球選手のスマッシュにおいて、ラケットの動きをms単位で解析した研究がある。ラケットがボールにぶつかるまでのラケットの加速度と角度を複数回計測した結果が下のグラフだ。

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出典:Bootsma, R. J., & Van Wieringen, P. C. (1990). Timing an attacking forehand drive in table tennis. Journal of experimental psychology: Human perception and performance, 16(1), 26.

 横軸が時間(ms)、縦軸がラケットの加速度(グラフC)ないし角度(グラフD)である。ラケットがボールにぶつかった瞬間(図中"CONTACT")を0msとしてグラフが書かれている。

 グラフDから読み取れることは、プロの選手ですら打つ150ms前の時点での軌道はバラバラだということである。このバラバラの軌道を打点へと収束させるために、100ms~50ms前にかけてラケットの加速度が微調整されていることがグラフCから分かる。

 さて、視覚から得た情報を認知し、手の動きを制御するためにはどんなに速くても100msはかかると言われている。神経系の伝達速度には限界があるからだ。もし、プロの卓球選手はボールと自身の腕の位置関係を認識しそれに応じて手の動きを微調整している、とデカルト流に考えるならば、この実験の結果は説明がつかない。腕の位置に応じた軌道修正は、位置のズレが生じてから50ms程度ですでに始まっている。脳の神経系を通じた情報伝達としては速すぎるのだ。

 

 ここで登場するのが、身体の構造の中に埋め込まれた情報、いわば身体の不変項である。ばね(筋肉)と棒(骨格)からできた人体は、関節を軸に腕が回転するような古典的なロボットとは異なる特性を持つ。計算機を搭載しなくても、簡単なバネと骨格のモデルでイヌの複雑な4足歩行が実現できることが確かめられている。ここらへんの話は下記の本に詳しい。

 

知能の原理 ―身体性に基づく構成論的アプローチ―

知能の原理 ―身体性に基づく構成論的アプローチ―

 

  認知における身体の役割を、ロボットを作るという観点からアプローチした非常に面白い本である。人間を詳らかに調べることで人間の知能に迫るのが『新版 アフォーダンス』だとすれば、人間のようなロボットを作ることで同じ問題へと攻勢を仕掛けるのがこの本だ。コインの裏表のような関係である。

 話を戻す。身体が持つ情報は、周りの障害に対して緩衝材のような役割を果たす。私達が凸凹の砂利道を何の苦労もなく走れるのは、ノイズが筋肉と骨が作る構造によって吸収されるからだ。走っている際の足の位置の微妙なブレなどは、腱と骨からなる構造によって自動的に修正される。わざわざ脳で考えて修正しているわけではない。私達が考えているのは、走りのリズムに体を馴致させることだけだ。

 ここにおいて、心身二元論はその有効性を失う。私達のこころが身体にあらゆることを命令しているわけではない。私達は、身体が持つ情報を適度に利用して行動している。いやそれどころか、私達の行動はほとんどが身体の持つ情報に支配されていると言ってもいいかもしれない。

 

 身体が人間の運動を支配している、というだけでも十分なインパクトがあるが、それに留まらず、最近の認知科学は「数学すらもヒトの身体性に支配されている」ことを明らかにしつつある、らしい。

 

数学の認知科学

数学の認知科学

 

  人間は数学を純粋に抽象的な思考で理解しているのではなく、「箱の中にモノがある」「箱の外にモノがある」といったメタファーの延長で理解しているとか。そのメタファーを活用しまくって、オイラーの等式「eπi=-1」の直感的理解を示すのが上の本。なのだが、私は途中で読むのをやめてしまった。別に内容がつまらなかったのではなくて、単に他のことに追われていただけなので、そのうち気が向いたら手を出すかもしれない。

 

 うーん、なんというか、「ぼくのかんがえるアフォーダンスりろん」みたいな記事になってしまった。最後の方アフォーダンスから離れて認知科学の話してるし。ギブソンの提唱した「包囲光」とか「面のキメ」とかいった重要な概念はすっ飛ばしてるし。

 まあ、やっぱりよく分かんないです、アフォーダンス。冒頭で「分かりやすい」とか宣言しちゃったけど。こんなオチでいいのかよと思いつつも、今回はこのへんで。

*1:引き出しに取っ手をくっつけて、「これは引っ張るモノですよ~」と使い手に知らせる、など。

*2:ヤギは言語を持たないのだから当たり前だが。

*3:二つある目が顔の右側面と左側面にくっついていて焦点を結びようがない馬がどのようにものの形を読み解いているのか考えてみるとよい。二つある目線の交差が人間の空間認識の本質であるという見解は誤りであり、本書にはその証拠がいくつか紹介されているがここでは省略する。