『バーナード嬢曰く。』読んだ

 

バーナード嬢曰く。 (REXコミックス)

バーナード嬢曰く。 (REXコミックス)

 

  今この文章を読んでるそこのあなた!読書は好きですか!?

 

 こんな辺鄙なブログを読んでくださっているところを見ると(ありがたい話だ)、もちろん活字を読むことが大好きで仕方がないのでしょう!いわんや書籍をや!そういう方はぜひこのマンガを読むべし!読書がもっと好きになるぞ!

 読書が好きでも何でもないあなた!なんてもったいない人生を送っているんだ!今すぐこのマンガを読んで読書の魅力を発見するんだ!

 

 冒頭からうるさくなってしまったので、ここからはテンションを少し下げてお届けしよう。

 

 施川ユウキ氏の『バーナード嬢曰く。』は、読書が好きだったり好きじゃなかったりする高校生*1たちが、色々な文学の古典・話題の新書・マニアックなSFをダシにしながらあることないことに花を咲かせるギャグマンガだ。

ヒロインの町田さわ子に痛いところを突かれ狼狽する「めんどくさいSF好き」神林しおり

読書が嫌いだけど読書通ぶりたいさわ子に名言を吐く神林

 この時点で内容が気になって仕方がない人はここ(要ニコニコアカウント)から冒頭を試し読みできる。現在一迅社REXで連載中で、単行本はまだこの1巻のみ。早く2巻出してくれ!!

 

 タイトルはもちろんバーナード・ショーのもじりで、「バーナード嬢」はヒロインの町田さわ子が勝手に自称している二つ名だ。本書の主要キャラクターは、本を読まずに読書家ぶりたいと考える町田さわ子と、一を訊くと十まで話しだすめんどくさいSFフリークの神林しおり*2、少し前に流行った本を古本屋で手に入れるのが趣味の遠藤くん、それとシャーロキアンな図書委員長谷川スミカ。

 マンガで登場する本は、主にある人物のせいでそこそこSFに偏っているのだが、全体として古典から最新のヒット作(なんと『恋空』までカバーしている)、『銃・病原菌・鉄』などの話題となった教養書など幅広い。それも、真面目に本の中身を扱うのではなく(なのでネタバレの心配はないぞ)、「『銃・病原菌・鉄』って銃は鉄なんだから3つのうち2つは一緒じゃん!」とか、「ロシア文学は人の呼び方多すぎてめんどくせえ」とか、非っ常にくだらない褒め言葉)切り口から語られる。

 でも、そこがとても面白い。本自体を見るのではなくて、本を読む人たちを一歩引いたところから見ている感じ。だから、読んでいて笑えるし、同時に「わかるww」「その発想はなかったわ」と、何だか自分を見つめ直しているような気分になってくる。

 

 読書好きなら絶対に面白さが分かるマンガだ。読書が好きでない人には無理に読めとは言わないが、「あぁ、読書って案外テキトーなんだな」ということが分かってもらえるはずだ。そう、読書なんでテキトーに、当人が読みたいように読めばいいのである。

 このマンガを読んでいて、私は無性に小説が読みたくなってきた。最近読んでなかったし。『順列都市』と、あとピンチョンが書いた何か(テキトーだ)。読んでると本が読みたくなるマンガ『バーナード嬢曰く。』。面白そうな本探しのためのツールとしても使えるので、読書人生で迷っているあなたはぜひ。

*1:作品中には高校生だとは一言も書かれていないが、イーガンを読める中学生は流石にいないと信じたいぞ…

*2:この名前、絶対『戦闘妖精・雪風』の作者である神林長平氏のオマージュだ

情報学環教育部の入部(?)試験対策について

 無事受かったので忘れないうちに書く。

 

※今年(2015年)、去年までと一次の筆記試験の傾向が少し変化した。以降この記事では、この問題傾向が維持されることを前提に対策を書く。この記事を参考にして落ちた場合私は一切の責任を負わないが、節度ある愚痴をコメントに残してくれる分には大歓迎である。

 情報学環教育部の試験は、一次試験(筆記)と二次試験(面接)からなる。あとは、出願時に必要な学習計画書と自己推薦書も大きく合否に関わってきそうなので、それも試験の一種と言えるかも。

各試験の概要

学習計画書&自己推薦書

 書式とか字数とかは募集要項参照。ちなみに、学習計画書は字数制限1500字程度のところ私は筆が走りすぎてしまい1800字くらいになってしまったが何もお咎めはなかった。参考程度に。

 大学院入試で課される「研究計画書」では自身がやりたい研究のテーマとその重要性・先行研究の概要などを記す必要があるが、こちらはあくまで「学習計画書」。「こんなことが学びたいなあ~エヘヘ」くらいのノリで書いて大丈夫。ちゃんと教育部で学べる内容かどうかだけはしっかりと確認しておく。かっちりした研究テーマを決める必要は全くないし、そういうザ・研究がしたい人はむしろ教育部なんかで油を売ってないで大学院の方の情報学環に行くべし。

 

一次試験

 試験時間は一時間で、合計1200字程度の記述。今年は、下記の本の一部を題材として

IT革命―ネット社会のゆくえ (岩波新書)

IT革命―ネット社会のゆくえ (岩波新書)

 

  傍線部を説明する問題が300字程度×2問、問3は「本文のテーマと自身が教育部で学びたいことがどのように関わってくるか」についての記述で字数制限ナシ(解答欄に書けるのは最大800字くらいだった気がする)。解答を自身の得意な領域にどれだけ引きずりこめるかがミソ。

 この一次試験は過去に何回か(そして今年も)問題傾向が変わっていて、それについてはこの記事の最後の方にちょろっと書いた。

 この試験で、80~90人→40人程度に受験生が絞られる。

 

二次試験

 一人15分間で1対2(受験生1に対して教授2)の面接。訊かれることは学習計画書&自己推薦書に書いた内容についての質問、今後の進路についての質問、ちゃんと単位を取って卒業できる程度には忙しくないよねと確認する質問、などなど。自治会作成のパンフレット*1に「○○先生に泣かされた」云々と書いてあったが、そのような圧迫面接ではなかった。少なくとも私の場合は。面接は受ける前はどうなることかと思ったが、始まってみると案外どうとでもなった。学習計画書と自己推薦書の読み直しくらいはしておこう。

 この試験で、40人→30人程度に絞られる。残った人は合格。おめでとう。

 (2015/12/5追記:この前ひょんなことで「二次の面接で落ちた」という稀有な人のお話を伺う機会を得たが、その人曰くどうやら「最終的に友達つくりたいですみたいな志望動機になってしまったのが良くなかったかも」とのこと。教育部での友達作りは諦めよう!じゃなくて、面接時にはオフパコ欲を抑圧してフォーマルに攻めよう!)

 

試験対策

 単刀直入に言おう。教育部に合格する上で重要なのは以下の三つだけ。

  1. 学びたいテーマを明確にする
  2. そのテーマと教育部のカリキュラムがどう関わっているのか調べる
  3. そのテーマに関する本、関係なくてもとりあえず本をいっぱい読む

 1と2に関しては、学習計画書を書く際に受験生誰もが必ずやっていることなのでわざわざ強調する必要はない。3に関しても、普段からそのテーマについて関心を持っているなら本の一冊や二冊読んでいてもおかしくない。本を読む習慣がない奴は今すぐこのページを閉じて本を読め。

 あれっ、じゃあ(本をいっぱい読んでいるとすれば)何も対策することなくね?

 

 その通り!上記の三つを既に実行している方はぶっちゃけ何もしなくても受かるはず。しいて言えば論理的な文章を書く練習はしておいた方が良いかもしれない。一時間で1000字程度の文章を書く基礎体力のない人は対策ナシでは厳しいだろう。

 教育部の試験はいまいち合格基準が分からないことで悪名高いが、私としてはテーマに対する受験生の熱量と知識量がポイントなんじゃないかと思っている。というか、あの試験では他に測れるものがない。基礎学力が身についているなら後はやる気と根気の問題である。もっと熱くなれよ!

 以下、私が実際に行った試験対策をつらつら書き連ねていく。

本を読む

 自治会のパンフレットには「筆記試験対策として読んだ本」として以下の四冊が挙げられていた。全部読んだ。

 

現代思想の教科書 (ちくま学芸文庫)

現代思想の教科書 (ちくま学芸文庫)

 

 

メディア文化論 --メディアを学ぶ人のための15話 改訂版 (有斐閣アルマ)
 

 

 

社会情報学ハンドブック

社会情報学ハンドブック

 

 

 

21世紀メディア論 (放送大学大学院教材)

21世紀メディア論 (放送大学大学院教材)

 

  結論から言うと、これらは別に読まなくてもよい。どれも面白い本なので読んでも損はないが、これらの本に書かれている内容が直接問われることはない。

 誤解して欲しくないのだが、自治会のパンフレットが出鱈目を言っているわけではない。問題傾向が変わっただけである。詳しくはこの記事の一番下に書いたが、要するに今年の問題はある特定の分野に関する基礎知識をほとんど必要としないものだったのだ。その意味で、これらの本を読まなければ受からないということはない。

 

 手前味噌だが、下二つの本には私の毒にも薬にもならない書評があるのでそちらも少しだけ参考に。

 

kn2423.hatenablog.com

kn2423.hatenablog.com

 

 小論文を解く練習をする

 「教育部の一次試験の問題って小論文みたいな感じですか?」と訊かれると返答に窮する。記述の量から言えば間違いなく小論文に近いのだが、設問のタイプから言えば「一問あたりの記述量が多い現代文の試験」に近い。

 というのも、設問の中で解答の構成の仕方まで指定されているから、小論文特有の方法論を勉強しておく必要がないのだ。普通、小論文の問題としては、例えば

  • ○○について、あなたの意見を論じよ。

とか、

  • ○○に関して、具体的な例を挙げつつ考察せよ。

とかいった、「解答の構成はキミにお任せだよ」パターンが多く、かといって本当に自由気ままに書くとただの随筆になるので「小論文の書き方」なるものを習得せねばならないのだが、例えば今年の問3の設問は

あなたが情報学環教育部で学びたいテーマと消費的生産者はどのように関わってくるかについて、1)テーマの説明、2)それに関係する消費的生産者の事例、3)それに関わる理論的考察という順序で述べなさい。

と、もう涙が出てくるほどの親切設計だ。1~3の要求に従って文章を書いて、それを繋げるだけ。小論文未経験者大歓迎のスタンスが見て取れる。

 小論文の練習として私は

 

大学院・大学編入学 社会人入試の小論文 改訂版 思考のメソッドとまとめ方

大学院・大学編入学 社会人入試の小論文 改訂版 思考のメソッドとまとめ方

 

 を使用し、この本もまたすばらしく出来の良い本なのだが、例によってこの本を読む必要はない。教育部の筆記試験は小論文ではないからだ。もっとも、普段から文章を書くことを行っておらず不安のある人はこの限りでない。ただ、そのような人は

 

東大入試に学ぶロジカルライティング (ちくま新書)

東大入試に学ぶロジカルライティング (ちくま新書)

 

 の使用を検討してもいいかもしれない。小論文を書く以前の「文章を正しく読み、その読みを正しくアウトプットする方法」を教えてくれるのがこの本であり、きちんとこなせば教育部の記述問題に打ち克つレベルまでは容易に到達できる。

現代用語の基礎知識 2015年版』を読む

 

現代用語の基礎知識 2015年版(通常版)

現代用語の基礎知識 2015年版(通常版)

 

  これはもう完全に蛇足。全く読む必要はない。私も「読む」といっても各項目の扉の文章を読んだ以外はほとんど読んでいないが。

 補足しておくと、以前は筆記で「○○(何かしらのバズワード)について説明せよ」という問題が出ていた時期があり、その対策のために読んでおいたのだが、やはり出なかったし、出たとしても私がしたような斜め読みではどうせ太刀打ちできない。

まとめ

 要するに、自分のやりたい事が明確にあり、学びに貪欲であるような方は何もしなくても普段通りの生活をしていれば受かる。あなたが教育部に合格し私のよき後輩となることを願う。

 

おまけ:筆記試験の問題傾向について

 筆記試験の過去問については「情報学環 教育部 過去問」とかでググればぼちぼち見つかるし、自治会のパンフレットをもらう時に昨年度の過去問もゲットできる。ここでは、私がネットと実際に貰った過去問を元に筆記試験の傾向をちょっと整理。私が観測した限りでは過去に2回問題傾向が変わっているので、勝手に第一期~第三期と名付けた。

第一期(?~2013前後)

 試験時間は恐らく二時間。大問が二問あり、問一は六個あるキーワード*2から四個選び説明する問題。一つのキーワードにつき300字程度か?問二は今も出されているような文章題。

 キーワード問題のせいで試験対策に『現代用語の基礎知識』などを読まされた受験生も多いようで、知識だけは多いが主体性のない学生が入ってくるようになったために問題の傾向を変えた(と勝手に推測している)。

第二期(2013前後~2014)

 大問は一問。試験時間はたぶん一時間。この時期の特色は最後の小問で「○○についてあなたの知っている具体的なテキストを挙げつつ論じよ」のような条件を指定してくること。テキストは書籍に限られている場合もあれば映画・新聞記事などもOKといった場合もある。特に2014年度には「東日本大震災について独特の観点から論じたテキストを挙げる」という縛りがついており、震災を毛ほども気にせず暮らしてきた学生は設問を見た瞬間に不合格を確信したことだろう。

 以前のような知識偏重の部分はなくなったものの、「普段から何かしらのテキストを濫読していること」という事実上の制限を課してしまう問題のあり方に疑問を抱いた問題作成者は、もう一度問題の傾向を変えた(と勝手に妄想している)。

第三期(2015~)

 ここに来てついに、情報学環教育部の筆記試験をパスするためには『現代用語の基礎知識』も「ある特定の文化に関する深い素養」も必要なくなった。教育部の民主化である!

 というのは半分冗談で、今や知識が全く必要とされなくなったなんてことはもちろんない。今年の問題も問一で「具体例をあげつつ」という条件が課されており、普段から好奇心旺盛で学びに貪欲であることは重要である。というか、むしろ今までの試験よりもいっそう貪欲さが求められるようになったのかもしれない。どういう領域に対するどんな問題が出されるか、全く分からなくなったのだから。

*1:「自治会のパンフレットってなんじゃい」という方はこちらを御覧じろ。

*2:医療崩壊」とか「EV」(電気自動車)とか、その時々で流行りの言葉であることが多い。分野は様々。

『視覚文化「超」講義』読んだ

 

視覚文化「超」講義

視覚文化「超」講義

 

  第二次大戦後の「視覚」文化、つまり美術・映画・楽曲MV・マンガ・ゲーム・アニメといったものを総括するような本。全体的に議論が散漫な印象をどうしても受けるので、この本一冊で視覚文化全体を一つの視座のもとにすっきりと俯瞰できるとは思えないが、大まかな見通しを得るために読む本としてはおすすめ。文章も分かりやすい。

 この本の凄いところはなんといっても扱っている題材の広汎さで、『「超」講義』と銘打つだけのことはある*1。本書のキーワードとなる「ノスタルジア」「ガジェット」といった概念を「バック・トゥ・ザ・フューチャー」三部作に求めつつ、シュルレアリスムが楽曲MVの起源になっていたり、バーチャファイターMMDの普及がアニメスタジオ「サンジゲン」に代表される日本製3DCGアニメの受容のきっかけとなっていたり、と主張するその引き出しの広さには圧倒される。おまけにドゥルーズジジェクボードリヤールなどの思想家も随所に登場し、視覚文化を語り尽くすための一大スペクタクルがそこでは展開されている。

 と同時に、むしろだからこそと言うべきかもしれないが、本書の主張はどこかまとまりが感じられない。アメリカにおけるハイカルチャーと大衆文化の融合を絵画について考察していたかと思いきや、突然映画におけるメロドラマの展開に話が移っていく。ちょこちょこ登場する「ノスタルジア」「フェイク」「ホビー」といったキーワードが、特定の作品ないしジャンルの分析を超えてどのような視座を提供するのか・どの程度の有効射程を持つのかといった性質を明記されないままフェードアウトしていく。

 これは筆者の思想がそもそも体系性のないものである、という発想には繋がらないだろう。巻末にある哲学者・國分功一郎氏との対談を読む限りだと、筆者の中には視覚文化に対するかなり体系だった理解があって、ただそれを上手く文字に起こすことができていないだけであるように感じる。もしくは、読者としての私に教養が圧倒的に足りないか。恐らく後者だろう。文章が分かりやすく、章単位で言えば主張も明快であるのに、「一冊の書籍」としてその思想を捉えようとすると雲をも掴むように感じられる不思議な本である。

 本書は、情報過多の時代においてどのように情報を消費するか、というテーゼに対して一つの解答を提示している。

しかし私は大事なのは減速や離脱には限られず、リズムの尺度を複数化させることだと考えます。(中略)加速、減速といった対比されるモデルの多くは、速度変化、知性・感性の混入の様々なモードとして、より一般化されうるとい見通しを抱いています。*2

  ここで「速度」が何なのかが明確に定義されておらず*3、この主張について語る前にまず「速度」の解釈学から始めなければならないところがこの本の恐ろしいところではあるのだが、ここではひとまずそれは置いておく。

 本書を正しく読むためには、複数の速度を保持しながら読むこと、國分氏の言う「ギアチェンジ」が恐らく重要だ。文単位や段落単位だけではなく、章単位、さらには本全体を視野にいれた読みを同時並行することで、この本が描こうとしている視覚文化のネットワークを理解することができるのではなかろうか。思うに、この本は何も無数の点を繋げて一つの直線を引きたいのではなく、点の集合をその集合のままで読者に提示したいのだ。理解できなかった人間がこのようなことをのたまうのはただの妄言かもしれないが、本書で主張される情報の受け取り方が再帰的に本書にも当てはまるような状況はなかなか面白いと思ったので。

 

 完全に蛇足だが、表紙絵がスバラシイ。作者はJohn Hathway氏で、ここから彼の作品群を垣間見ることができる。ちなみに彼は根っからの日本人でJohn Hathwayはただのペンネーム。だまされた。東大の院で物理工学の修士を取ってたりもする、よく分からん人である。

*1:単純に対象作品の量から見ても超人的であり、同時に特定のジャンルを超越した考察が行われている。

*2:本書 p278

*3:私が読む限りでは、この本の中では「速度」という概念に「単位時間あたりの情報摂取量」と「モードの変遷の周期」という二つの相容れない解釈が与えられいる。

『神山健治』(KAWADE夢ムック)読んだ

 

神山健治 (文藝別冊/KAWADE夢ムック)

神山健治 (文藝別冊/KAWADE夢ムック)

 

  「009 RE:CYBORG」公開直前に出版されたムック本。ファンだから読んだ。結論から言うと少し期待外れ。

 監督の作劇論みたいなことを知りたかったのだが、どちらかというと映像の作り方とか現場での振る舞い方とかいった話が主で、もちろんそれらに関しては面白いことがいろいろ書いてあるのだが(結局3Dで作った方が2Dよりコストがかかるとか、ミニパトでの経験が009で活きているとか)、そっちじゃなくてどうやってお話を作り上げているのかもっと掘り下げてくれよ…という感じ。もしかしたら監督もそこまで深くは考えていない?

 あと、寄稿文については正直期待しないほうがいいです。攻殻SACにおける反復性と一回性について述べてる論考は唯一よかった。というか、あそこまで書いておいてなぜベンヤミンアウラの話を出さなかったのか。筆者が表象文化論専攻ということなのでよもや知らないなんてことはなかろうに。

 

 神山作品についての論考を読みたいならこっちを読むべし。

ユリイカ2005年10月号 特集=攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX

ユリイカ2005年10月号 特集=攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX

 

  こっちは攻殻SSS公開直前に出版された本で、主にSAC1期と2期についていろいろ書かれている。東浩紀との対談が非常に濃くて良い。上野俊哉との文通のほうは、上野さんが書きたいことを書いてそれに頑張って神山さんが話を合わせようとしているような印象を受けて、あんまり好きではないのだけれども。

『生命と機械をつなぐ知 基礎情報学入門』読んだ

 

生命と機械をつなぐ知 基礎情報学入門

生命と機械をつなぐ知 基礎情報学入門

 

  「基礎情報学」とやらの入門書。そもそも基礎情報学が一学問分野としてしっかりと確立されたものなのかは私にはよく分からないが、情報学環の西垣通氏の研究室に所属する方が出す著作は「基礎情報学」を話の前提としているため、その前提を知らないと全くもって歯が立たない書籍が多い。この本は難解な基礎情報学をかなり噛み砕いて平易に解説しているので、予備知識は必要ない、と思う。

 こういった教科書の類は、私がつらつら感想を並べ立てるよりも目次を載っけてくれた方が読む側としては有益だと思うので、ひとまず目次をば。

 

第1章 情報

 

 1.1 情報とは何か

 1.2 情報学の分類

 1.3 情報の伝達と蓄積

 1.4 情報量

 1.5 身体と生命情報

 1.6 記号と社会情報

 1.7 ITと機械情報

 1.8 デジタルとアナログ

 

第2章 システム

 2.1 自律システムと他律システム

 2.2 コンピュータ・システム

 2.3 有機構成

 2.4 オートポイエーシス

 2.5 心的システム

 2.6 社会システム

 2.7 階層的自律コミュニケーション・システム

 2.8 ロボット

 

第3章 メディア

 3.1 伝播作用

 3.2 成果メディア

 3.3 連辞的メディア

 3.4 範列的メディア

 3.5 マスメディア・システム

 3.6 ウェブ検索

 3.7 双方向メディア

 3.8 インターネット・システム

 

第4章 コミュニケーションとプロパゲーション

 4.1 システム作動と意味伝播

 4.2 構成される世界

 4.3 個人の学習

 4.4 組織の学習

 4.5 機械の学習

 4.6 システムの進化

 4.7 デジタルデバイド

 4.8 人間=機械複合系

 

 そのテキストが扱っている領域がはっきりしていた方が読む側も本の選定がしやすいだろうと思って目次をコピペしたのだが、どうだろうか。

 各小項目について、概念の説明・応用・補足なども含めて5~6ページ。全体で205ページの気軽に読める本。

 

 一つだけ内容に突っ込むなら、「成果メディア」というネーミングは不要な混乱を招くのでやめた方がよいのでは。もともと理論社会学の用語とのことなので仕方ない部分もあるのだろうが、基礎情報学に取り入れる際に名前を変えちゃっても良かったんじゃなかろうか。何かを媒介しているわけではなくて、システムの方向性を定義付けるものなのだから、名前はなんだろう、「システム象徴項」とか?

『新版 アフォーダンス』読んだ

 

新版 アフォーダンス (岩波科学ライブラリー)

新版 アフォーダンス (岩波科学ライブラリー)

 

  アメリカの知覚心理学ジェームズ・ギブソンが生み出し、わかりにくいことで有名な概念「アフォーダンス」を基軸にして、認知科学についてのアレコレを分かりやすく語った本。私にとっては分かりやすかったのだが、いかんせんこういう話に触れるのがこの本で三回目になるので、客観的な判断は保留しておく。

 これより先、アフォーダンスについての考えを整理するための個人的覚え書き。クソ長い。

 

 アフォーダンスとは、環境の中に内在していて、動物に読み取られることを待っている情報のことである。例えば、ある一枚のペラペラの紙がここにあったとしよう。その紙を破ったり、丸めて投げたり、折り鶴をその紙から作ったりする一連の行為は、全てその紙に内在していたアフォーダンスをヒトが読み取った結果である。アフォーダンスは無限に存在している。紙にも多くの人にまだ読み取られていないアフォーダンスがあるかもしれない。床においた紙の上に人が座るというアフォーダンスはどうだろう?紙を食べるというアフォーダンスは?

 アフォーダンスに「正しい」「誤っている」といったような区分けは存在しない。デザインの界隈ではアフォーダンスという言葉は「あるモノの用途がユーザーに伝わるように、モノのデザインに施す工夫*1」という意味で用いられるが、これは誤用である。マトモな人は紙に内在する「食べる」というアフォーダンスを読み取らないが、ヤギはそれを読み取っている。さらに言えば、黒ヤギさんは手紙を読まずに食べてしまう。紙を文字の出力先とみるアフォーダンスを、ヤギは読み取っていない*2アフォーダンスは無限に存在しているが、人に読み取れるのはその一部である。

 

 ……というのがアフォーダンスの通り一遍の説明なのだが、あなたはこの説明を聞いて腑に落ちるだろうか。私の率直な感想は、

 「何でこんなムダにややこしい理屈が必要なんだ?人が刺激を知覚して、経験と推論をもとに判断して、行動を起こすっていうのが従来の認知のモデルでしょ?そっちの方が分かりやすいからそれで良くね?」

 人間が紙を切ったり丸めたり折ったりするのも、長年の歴史の中で誰かが発見して受け継がれてきた技術と見ればそれで良いではないか。人が紙を食べないのは「食べたけどマズかった」とか「食ったら腹下した」とかいった知識が広まっているからであって、何も「なんとかダンスがうんぬん~」と説明する必要はない。世の中を説明する方法が複数あって、どれも正しいようなら、一番シンプルなモデルを選択する。科学に携わる人間がここ二千年の間ずっとやってきたことではないか。

 ギブソンが初期に研究していた視覚について掘り下げると、この疑問に関する見通しが少しだけ良くなる。以下、この本に書かれてない個人的な見解も含まれるので注意。

 

 あなたの前に何か直方体があったとしよう。これを真正面から見ただけでは、どのくらいの奥行きを持つのかは分からない。奥行きを知るためには、頭を動かして別の角度から直方体を見る必要がある。

 この時、直方体の各面はさまざまな形の台形となってあなたの目に映っているはずである。視点を動かせば各台形の形も変わる。しかし、次々と変わっていく台形の内角の関係や辺の長さの比率には一定の法則がある。このように、視覚から得られる情報の変化において変わらないものをギブソンは「不変項」と呼んだ。人間は両目の焦点距離などから形状を判断しているのではなく*3、ものが持つ不変項を読み解きそれをものの形状とリンクさせている。我々はなにも自らの目の空間座標と物体の空間座標、重力方向に対する目線の角度などからヤヤコシイ計算をして「これは直方体だ!」と判断しているのではなく、直方体が持つ不変項を拾い上げているだけである。認知の機構としては明らかに後者の方が省エネではないだろうか。

 不変項の存在を考えると、あらゆる情報は私達が自力で編み出したのではなく、モノに内在する何かを読み取った結果だと考えた方がスッキリする気がする。「ものの中にアフォーダンスが実在する」と言うよりも、「ものの物性と私達の身体の相互作用の中で何かしらのアフォーダンスが立ち上がってきて、我々はそのアフォーダンスを読み取って『こいつの使い道を俺が自力で見つけたんだ!』と言い張っているに過ぎない。見つかる使い道は我々の思考よりもむしろものが持つ物性・アフォーダンスに依存する」と表現した方が分かりやすいだろうか。もっとも、こう言い換えてしまうとアフォーダンスについてのギブソンの定義からは少し離れてしまうのだが。

 

 アフォーダンス理論は、デカルト心身二元論認知科学の立場から突き崩すという点において重要である。(と、私は勝手に考えている。)

 ヒトが「歩こう」と思った時に、いちいち両足に存在する腱全てに脳から逐一命令を送っていると考えるのがデカルト的理解である。しかし、足に存在する腱の自由度を考えるだけでもとんでもない組み合わせ数となる。地面の傾き、凸凹なども考慮した上で全ての関節をきちんと制御して歩かせることが困難なのは、この考え方に基いて作られたASIMOの歩きっぷりを見ればよく分かるだろう。

 もう少し実証的な例を挙げよう。プロの卓球選手のスマッシュにおいて、ラケットの動きをms単位で解析した研究がある。ラケットがボールにぶつかるまでのラケットの加速度と角度を複数回計測した結果が下のグラフだ。

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出典:Bootsma, R. J., & Van Wieringen, P. C. (1990). Timing an attacking forehand drive in table tennis. Journal of experimental psychology: Human perception and performance, 16(1), 26.

 横軸が時間(ms)、縦軸がラケットの加速度(グラフC)ないし角度(グラフD)である。ラケットがボールにぶつかった瞬間(図中"CONTACT")を0msとしてグラフが書かれている。

 グラフDから読み取れることは、プロの選手ですら打つ150ms前の時点での軌道はバラバラだということである。このバラバラの軌道を打点へと収束させるために、100ms~50ms前にかけてラケットの加速度が微調整されていることがグラフCから分かる。

 さて、視覚から得た情報を認知し、手の動きを制御するためにはどんなに速くても100msはかかると言われている。神経系の伝達速度には限界があるからだ。もし、プロの卓球選手はボールと自身の腕の位置関係を認識しそれに応じて手の動きを微調整している、とデカルト流に考えるならば、この実験の結果は説明がつかない。腕の位置に応じた軌道修正は、位置のズレが生じてから50ms程度ですでに始まっている。脳の神経系を通じた情報伝達としては速すぎるのだ。

 

 ここで登場するのが、身体の構造の中に埋め込まれた情報、いわば身体の不変項である。ばね(筋肉)と棒(骨格)からできた人体は、関節を軸に腕が回転するような古典的なロボットとは異なる特性を持つ。計算機を搭載しなくても、簡単なバネと骨格のモデルでイヌの複雑な4足歩行が実現できることが確かめられている。ここらへんの話は下記の本に詳しい。

 

知能の原理 ―身体性に基づく構成論的アプローチ―

知能の原理 ―身体性に基づく構成論的アプローチ―

 

  認知における身体の役割を、ロボットを作るという観点からアプローチした非常に面白い本である。人間を詳らかに調べることで人間の知能に迫るのが『新版 アフォーダンス』だとすれば、人間のようなロボットを作ることで同じ問題へと攻勢を仕掛けるのがこの本だ。コインの裏表のような関係である。

 話を戻す。身体が持つ情報は、周りの障害に対して緩衝材のような役割を果たす。私達が凸凹の砂利道を何の苦労もなく走れるのは、ノイズが筋肉と骨が作る構造によって吸収されるからだ。走っている際の足の位置の微妙なブレなどは、腱と骨からなる構造によって自動的に修正される。わざわざ脳で考えて修正しているわけではない。私達が考えているのは、走りのリズムに体を馴致させることだけだ。

 ここにおいて、心身二元論はその有効性を失う。私達のこころが身体にあらゆることを命令しているわけではない。私達は、身体が持つ情報を適度に利用して行動している。いやそれどころか、私達の行動はほとんどが身体の持つ情報に支配されていると言ってもいいかもしれない。

 

 身体が人間の運動を支配している、というだけでも十分なインパクトがあるが、それに留まらず、最近の認知科学は「数学すらもヒトの身体性に支配されている」ことを明らかにしつつある、らしい。

 

数学の認知科学

数学の認知科学

 

  人間は数学を純粋に抽象的な思考で理解しているのではなく、「箱の中にモノがある」「箱の外にモノがある」といったメタファーの延長で理解しているとか。そのメタファーを活用しまくって、オイラーの等式「eπi=-1」の直感的理解を示すのが上の本。なのだが、私は途中で読むのをやめてしまった。別に内容がつまらなかったのではなくて、単に他のことに追われていただけなので、そのうち気が向いたら手を出すかもしれない。

 

 うーん、なんというか、「ぼくのかんがえるアフォーダンスりろん」みたいな記事になってしまった。最後の方アフォーダンスから離れて認知科学の話してるし。ギブソンの提唱した「包囲光」とか「面のキメ」とかいった重要な概念はすっ飛ばしてるし。

 まあ、やっぱりよく分かんないです、アフォーダンス。冒頭で「分かりやすい」とか宣言しちゃったけど。こんなオチでいいのかよと思いつつも、今回はこのへんで。

*1:引き出しに取っ手をくっつけて、「これは引っ張るモノですよ~」と使い手に知らせる、など。

*2:ヤギは言語を持たないのだから当たり前だが。

*3:二つある目が顔の右側面と左側面にくっついていて焦点を結びようがない馬がどのようにものの形を読み解いているのか考えてみるとよい。二つある目線の交差が人間の空間認識の本質であるという見解は誤りであり、本書にはその証拠がいくつか紹介されているがここでは省略する。

『21世紀メディア論』読んだ

 

21世紀メディア論 (放送大学大学院教材)

21世紀メディア論 (放送大学大学院教材)

 

  ※私が読んだのは2011年に発行された初版なので、上に貼った改訂版とは内容がそこそこ違うかもしれない。恐らくだいぶ違う。

 

 放送大学でのメディア論に関する講義の教科書。といってもこの本単体で読める。放送大学の映像講義を参照する必要はない。

 

 本書前半、20世紀までのメディア論を概観する部分は他の類書とあまり違いはない。後半が少し面白い。筆者は21世紀においてメディアを正しく理解するには、メディアの実践が不可欠だと訴える。メディアの実践ってなんじゃらほいという話だが、本書にはたくさんのWS(ワークショップ)の例が出ている。例えば筆者が武蔵大学の講義で実施したあるワークショップでは、筆者の研究室に所属するスペイン人留学生が引っ張ってこられて、スペインでのケータイ事情について話をする。ここまでは普通の講義と一緒だが、この回で学生に課されるレポートは、「講義の様子をケータイで写メって、短い文章をくっつけて教授にメールすること」。ミニ新聞記者である。受講生が撮る写真がさまざまであったというのも面白い。話している留学生を撮るのはもちろんのこと、皆がケータイを構える教室全体の写真を撮ったり、ケータイを構えている隣の人の写真を撮ったり。メディアにおける言説生成に自分がチャレンジすることで、メディアへの理解を深める。これがメディアの実践である。

 

 一つ注意事項。この本後半の内容は主に筆者が研究として主導的にやっていることなので、良く言えばチャレンジング、悪く言えば未完成の体系である。それぞれの概念の有効射程が曖昧で、全体的に議論がもわもわしている感じを受けた。要するに、「レポート書くためにメディア論の基礎文献欲しいなア~」という人にはこの本はオススメしない。後半の概念を議論の前提にすると恐らく墓穴を掘る。あなたが非常に優秀で筆者の議論を補完しつつレポートに援用できるなら話は別だが。

 メディア論の基礎文献としてはこっち↓がオススメ。

 

メディア文化論 --メディアを学ぶ人のための15話 改訂版 (有斐閣アルマ)